アンデス共同体

 

アンデス6ヵ国は、人口面でパナマを含む中米6ヵ国の3倍だが、面積では12倍にもなる。統合の歴史は、中米以上に複雑だ。

(1) アンデス諸国の生い立ち

チリを除くアンデス五ヵ国は1819年から25年にかけ、全て、ボリーバルが解放した。その意味で一体感は有る。この内ペルーとボリビアの解放に最初に着手したのは、1818年にチリを解放していたサンマルティン1778-1850)だ。

下表の如く、当時「アルトペルー」と呼ばれていたボリビアを、リオデラプラタ諸州連合(アルゼンチン)として奪回することを最終目的としていた。未実現の段階にあった1823年、これをボリーバルに託し、南米解放事業から退場した。 

1

副王管轄領

独立国

統合

最終国

ヌエバグラナダ

軍務総監領

グランコロンビア

ベネズエラ

副王直轄領

コロンビア

エクアドル

ペルー

 軍務総監領

チリ

副王直轄領

ペルー

ペルー・ボリビア連合

ペルー

リオデラプラタ

 副王直轄領

ボリビア

ボリビア

ボリーバルは、最終目標を南米統合に置いた。だが、一国として纏め得たのは、旧ヌエバグラナダ副王管轄地域のグランコロンビアだけで、それすら維持すらできなかった。1830年の解体の後は、カウディーリョによる長期政権が武力で交代する歴史を刻むベネズエラ、中央集権と連邦主義の両勢力間抗争が続き建国後半世紀で国名を四度も変えたコロンビア、政治不安の末、最も保守主義色彩の強い憲法を作り上げたエクアドルと、異なった道を進む。国土の広大さ、3ヵ国を分ける険峻なアンデス山脈などの要因もあろうが、中米と異なって再統合への動きは見られなかった。
 残るペルーとボリビアはもともと民族的、文化的共通点が多かった。だが植民地時代、前者はペルー副王が、後者はリオデラプラタ副王が管轄した。サンマルティンは植民地時代の統治体制を引き継ごうとし、ボリーバルはペルーとの統一国家建設を志向した。ところが、ボリビアの指導者たちはいずれをも拒否し、いきなり一国家としての建国の道を採った。ただ、国名にボリーバルの名前を冠しボリビアとして、解放者への恩義を表した。
 1836年、そのボリビア大統領に就いたサンタクルス1792-1865)がペルーを併合し、自らを終身護国官とする「ペルー・ボリビア連合」を樹立した。だが、これは3年で崩壊している。以後、再統合への動きは見られない。

エクアドル初代大統領のフロレス1800-64)は、失脚後の亡命中、旧インカ帝国が支配したペルー、ボリビア及びエクアドル3ヵ国を一王国とし、国王をヨーロッパの王室から招く、という構想を説いて回った、と言われる。しかし、ペルーとボリビアの統合も無くなった状況で、さらにエクアドルを加えた統合は、有り得なかった。
 チリは、1833年の段階で中央集権と教会保護の色彩が強い保守主義憲法を制定し国家統合をひた走った。上記ペルー・ボリビア連合の崩壊を招いたのは、チリの「連合戦争」(下記「太平洋戦争」含め、別掲「ラ米の軍部と戦争」独立黎明期の戦争参照)勝利による。この時は領土割譲を求めず、寧ろ国内の実効支配地域を南部へ拡大、そこにヨーロッパ移民が入植していく政策を進めた。そして40年後、「太平洋戦争」で再び勝利し領土も北方に拡大、新領土の硝石、銅の豊富な資源により経済発展は著しく、域内先進国となっていく。ボリビアは太平洋沿岸を失い内陸国となり、これが歴史的な反チリ感情に繋がる。 

(2)アンデス共同市場からアンデス共同体へ 

前項の中米諸国機構(ODECA発足と同じ頃にスタートしたラテンアメリカ自由貿易連合(LAFTAへのアンデス諸国の調印は、1960年にメキシコ、ペルー、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイ、アルゼンチン、チリの7ヵ国、翌61年にコロンビア及びエクアドル、66年にベネズエラ、そして67年にボリビア、と、時間をおいて行われた。それ以降のアンデス諸国統合への動きを下表に俯瞰する。

2

地域統合への動き

1960

2

「モンテビデオ条約」締結。ラテンアメリカ自由貿易連合LAFTA)創設へ

1969

5

「カルタヘナ協定」(通称Pacto Andinoアンデス条約)調印

1973

2

ベネズエラが加盟

1976

10

チリが脱退

1978

6

アンデス準備基金(Fondo Andino de ReservasFAR)創設

1979

10

アンデス議会及びアンデス司法裁判所創設が条約化

1996

3

「トルヒーヨ議定書」アンデス共同体(Comunidad AndinaCAN創設

1997

CAN事務総局(リマ市)発足

2005

1

CAN加盟国の国民に対する旅券無し移動の自由化

2006

4

ベネズエラが脱退

LAFTA創設時、コロンビアは自由・保守両党が交代制で大統領を出す「国民戦戦(1958-74)」の時代にあり、左翼ゲリラが活発化していた。創設からほどなく、エクアドルとボリビアが、時間を置いてペルーが軍政に入った。チリは、アジェンデ社会主義政権発足を翌年に控えていた。その中でベネズエラを除く5ヵ国でアンデス条約が締結され、ANCOMが誕生した。
 世界的にも有数の石油資源を享受する域内富裕国ベネズエラが加盟して半年後、世界最大の産銅を背景としたもう一つの域内富裕国チリでは、ピノチェト軍政が始まり、これが3年後の脱退に繋がった。以後、ANCOM加盟5カ国とは、チリを除くアンデス諸国を指す。一方で、条約加盟国の国際収支支援を行う目的で、アンデス準備基金が創設された。 

197982年、エクアドル、ペルー及びボリビアで民政移管が成った。だが、80年代は、経済面ではいわゆる「失われた10年」の時代にあった。ベネズエラも例外ではなかった。コロンビアでは、左翼ゲリラと麻薬組織の強大化も進んでいた。こうして、アンデス地域も、中米同様に統合プロセスの足踏み状態となった。LAFTAが目指した1980年までの自由貿易圏創設は、その一部に過ぎないANCOMでの実現すら覚束なかった。同年、加盟11カ国が、加盟国間の開発段階の違いに配慮、現実的かつ柔軟な統合を重視する、として、自由貿易圏完成の期限を特に定めない新条約を締結した。これで発足したのがALADIで、LAFTAは解消された。
 1988
年、上記アンデス準備基金は対象を域外に広げ、ラテンアメリカ準備基金Fondo Latinoamericano de ReservasFLAR)に改称した。

1991年、アンデス首脳評議会が立ち上げられ、93年に域内貿易制限の撤廃、94年域外共通関税が決定され、96年、ANCOMCANへと発展する。この頃、一時的に脱退していたペルーが復帰、事務総局も誘致した。 

(3)アンデス共同体の現状

1996年トルヒーヨ議定書が定めるCANの組織は下記のようになっている。

  • 首脳評議会(最高意思決定機関)、外相評議会(共通外交政策の策定、年2回以上)、理事会(加盟国代表によるもので、年3回以上)
  • アンデス議会84年に発足)改変。議員の民選、任期(5年)、人数(一ヵ国につき5名)を定める。中米議会に比べ議員数が少ないが、人口配分方式及び政党要件でEUと性格が異なる点は同様
  • アンデス司法裁判所の実質的発足(1999年)
  • 事務総局設置(1997年)

首脳評議会(サミット)は、直近の定例会合は20117月の第18回で、その前が20076月の第17回、と言う様に、年間2回のSICA(直近が第41回)や後述のメルコスル(同第45回)と異なり、頻度が極めて低い。 

20016月、中米のCA-4より早く、加盟国の発行する旅券のモデルが統一され、051月以来、加盟国の国民による旅券無し域内移動も、ベネズエラを除き可能になった。061月、域内物流の完全自由化が始まり、五ヵ国間のヒト、モノの流れに限ると、統合がほぼ完成した。だが直後の064月、チャベス政権下のベネズエラがペルー、エクアドル及びコロンビアの対米FTAに反発し脱退した。20137月現在の五ヵ国状況は下記の通りだ。 

3

国名

アンデス統合への関与

ベネズエラ

2006年に脱退。2012年メルコスル正式加盟。労組指導者だったマドゥーロ大統領はチャベス前大統領後継を自認、「米州ボリーバル同盟(ALBA)」を推進

コロンビア

アンデス議会所在国。対米FTA2010年就任の右派サントス大統領は親米だが、ゲリラとの和平対話でキューバ、ベネズエラの協力も得る

エクアドル

アンデス司法裁判所所在国。2007年成立したコレア左派政権は対米FTA交渉を白紙化。ALBAに加盟

ペルー

CAN事務総局所在国。対米FTA 2011年に就任したウマラ大統領は軍人出身。中道左派の位置付け

ボリビア

2006年発足のモラレス左派政権は、太平洋への出口を求め、チリとの駆け引き強い。反米姿勢が強い。ALBAに加盟。メルコスル加盟申請中


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