独立黎明期(1820-50年代)の戦争 |
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独立黎明期は、カウディーリョ同士による内乱の頻発期に当たる。紫字で記す個々人やその時代背景に就いては、別掲のカウディーリョたち及びラ米の独立革命をもご参照願う。ここではラ米史上、重要な国家間戦争に就いて述べる。 (1)ブラジル・アルゼンチン戦争(1825年10月~28年8月) 1816年に「ポルトガル・ブラジル連合王国(以下、連合王国)」の国王に即位したジョアン六世の王妃はスペイン王室から出ており、その領地はスペインのラプラタ副王領を構成していたバンダオリエンタル(現ウルグアイ)とされていた。従って同年7月の「ラプラタ諸州連合(以下、諸州連合)」独立宣言は見過ごせない。一方で、バンダオリエンタル独立革命の指導者アルティガスはこの独立宣言を採択した会議に参加していない。彼は独立宣言を推進した諸州連合の「統合派(ウニオニスタ)」とは、政治路線上の敵対関係にあった。 1817年1月、連合王国がモンテビデオを占領、アルティガスは追放され、多くの住民がブエノスアイレスなどに避難する。諸州連合は、この動きを結果的に黙認した。8年後の25年1月、諸州連合は「基本法」を制定、併せて連合大統領を選出し国家としての体裁を整える。同年8月、バンダオリエンタル独立派が帰還し、ブラジル帝国(22年にポルトガルより独立)からの独立を宣言した。ブラジルは領土保全を理由に、この背後にある諸州連合に対し、同年12月、宣戦する。戦争は連合側が優勢だった、とされる。国力で遥かに勝るブラジルだが、遠隔地リオからの艦隊、兵隊の増派困難に加え、士気に関わる状況が、戦争突入後間もなく起きる。26年3月、ポルトガル王ジョアン六世が死去した。一方で、ブラジル皇帝ペドロ一世は彼の皇太子だった。旧宗主国の王位継承問題の方に没頭するようになる。 諸州連合も国家としての纏まりが途上で、厭戦気分が高まる。1828年6月、連合大統領が辞任、以後上記基本法に則り、ブエノスアイレス州知事がこれを代行、同年8月、イギリスの調停によって講和し、両国間の緩衝国家としてのウルグアイ独立が決まった。また、ブラジル・ウルグアイ・アルゼンチン現国境が画定した。 (2)連合戦争(1836年12月~39年4月) 1825年8月、ボリビアが、国家としてはペルーと一体化させたい解放者ボリーバルの意図に反し、ボリビアの国名とスクレの終身大統領就任を引き換えに独立を宣言した。ボリーバル帰国後スクレを追放、29年2月、クエンカ(現エクアドル)地方領有権を巡るグランコロンビア(現ベネズエラ、コロンビア、エクアドルで構成)との紛争で、ペルー軍が越境攻撃に出た。戦場名を採ってポルテテ・イ・タルキ会戦と呼ぶ。ここではスクレの指揮下、グランコロンビア軍がペルー軍を撃退、ペルーのクエンカ領有権主張は以後無くなった。 1836年6月、ボリビアのサンタクルス大統領がペルーへの影響度が強め、その大統領、ガマラを追放、「ペルー・ボリビア連合」(以下「連合」)を樹立、ペルー亡命中のチリのフレイレ(*1)元最高統領が「連合」を後ろ盾として、ペルー軍艦でチリ侵攻を図った。失敗したが、これがチリによる対「連合」宣戦に発展した。チリ軍は逆にガマラを味方として攻勢をかけ、39年1月のユンガイ会戦で「連合」軍を撃破、4月にリマ占領に至り、事実上決着した。ガマラが復権しサンタクルスは失脚、「連合」は解体した。今度はガマラが「連合」再建を図り、自らがペルー軍を率いてボリビアに侵攻、41年11月のインガビ会戦敗退で戦死している。以後、両国の連合構想は無くなる。なおこの両国間には国境問題は起きていない。 (3)米墨戦争(1846年7月~48年2月) 1829年7月、メキシコ独立を認めないスペインが軍艦を派遣した。38年11月にはフランス軍艦もベラクルスに襲来した。いずれもサンタアナの努力で撃退したが、メキシコ国内ではクーデターが相次ぎ、独立国家としての纏まりを欠いていた。 1836年2月、テハス(テキサス)の独立派の米人入植者らによるアラモ砦守備隊が、サンタアナ指揮下のメキシコ国軍に全滅させられた(アラモの戦い)。2ヵ月後、米人独立派はサンハシントの戦いで国軍を撃退して分離独立した。そのテキサスは、45年末に米国に併合された。その後、メキシコとの境界を巡る係争が起こった。米国はかつてのテキサスの州境であるヌエセス川を国境と認めず、それより南のリオグランデを主張した。メキシコの国境守備兵がリオグランデ以北から撤退しないのに我慢できない、として、翌46年7月、米軍がメキシコ侵攻に踏み切った。当時米国で「マニフェスト・デスティニー」(別掲ラ米と米国のマニフェスト・デスティニー)が喧伝されていた。 1847年9月、侵攻開始から1年1年余りで、もう首都が陥落した。48年2月、メキシコが降伏し、現カリフォルニア、ネヴァダ、アリゾナ、コロラド、ユタ、ニューメキシコを米国に譲渡した。53年12月にもアリゾナ州と隣接する7.6万平方㌔を譲渡し、現在の国境が画定された。後年、首都陥落の折に殉死した少年兵の銅像がチャプルテペック公園入り口に建てられ、歴代大統領が訪れる慣わしになっている。 五ヵ国に分裂した中米諸国では、夫々の国の政治路線(保守か自由主義か)を巡りお互いに干渉し合い、軍事行動も国境を越える事件が何件か起きている。保守派政権で足並みを揃えていた時代、ニカラグアでは政権野党とも言うべき自由派が、政権転覆を狙って、米墨戦争から復員していた米人ウォーカー(William Walker、1824-60)が指揮する傭兵隊(米墨戦争にも従軍)を招請した。彼が国家としても纏まりがないニカラグアを制圧するのに時間は要しなかった。問題は、米人の彼が大統領を名乗るようになったことだ。 1956年3月、コスタリカのモラ(*2)大統領が総司令官となり、グァテマラ、ホンジュラス及びエルサルバドと中米連合軍を結成しニカラグアに侵攻、ウォーカー指揮下のニカラグア軍との交戦に及ぶ。最終的には米国の調停を受ける形で彼を追放し決着した。これを国民戦争と呼び、実態は外人個人の部隊をニカラグアから追放するための中米諸国の軍事支援、と言え、国家間戦争とは趣は異なる。ウォーカーはその後も2度にわたり中米侵攻を試み、最終的にホンジュラスで処刑された。 人名表: (*1)フレイレ(Ramón Freire Serrano、1787-1851):チリ
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