征服と植民地制度 |
||||||
本項より、コンキスタドルの名前が最初に出た場合、青字で示す。私の独断で重要人物のみ人名表に略記する。 コロンブス(1。スペイン語名はコロン、以下同)はご存知の通り、都合4回も探検隊を率いた。この偉大な「探検家」も、「コンキスタドル」の一人に加えねばなるまい。その第二回目航海(1493年9月~96年3月。隊員数は第一回目の時の20倍)はカリブ島嶼部の探検で知られるが、その後イスパニオラ島に戻り実弟のバルトロメ(2)と共に、武力で先住民社会を征服し、彼らの富を奴奪した上で奴隷化して生産活動を行わせ、その成果も収奪する、いわゆる征服事業に当たった。2年半で帰国したのは、先住民虐殺に関る弁明のためだ。この間、96年にバルトロメオが征服拠点となるサントドミンゴを建設している。第三回航海(1498年5月~1500年10月)は南米大陸沿岸の探検が知られるが、やはりイスパニオラ島に戻り、征服事業を遂行した。先住民虐待で、今度は逮捕され、弟と共にスペインに送還され、協約書は破棄された。 一定の新領土を統治する権限を付与された人を総督(Gobernador)と呼ぶ。コンキスタドル当人は、先遣総督(Aledantado。以下アデランタードと表記)と称する。但し、直接スペイン王室からその旨の協約書を入手する必要があり、一旦アデランタードになれば、インディアス総監はもとより、既存総督の管轄下に組み入れられた領土でも、独立した総督権限を行使できた。インディアス世襲総監である筈のコロン家は、事実上、全ての権益を喪失することになる(ただパナマからニカラグアにかけた一帯であるベラグアが表面的に残され、同家はベラグア侯の称号を得た)。 1502年、有名な「エンコミエンダ(Encomienda)」制が導入された。コンキスタドルが征服した先住民を勝手に支配するのではなく、支配体制を体系化しようとするものだ。王室はコンキスタドルに対し、国王に代わり先住民からの納税と賦役義務を遂行させることを、「委託(スペイン語でencomendar)」する、とする。「エンコメンデロ(Encomendero)」(エンコミエンダを得た人)は先住民に貢納させ(そのまま収入になる)、また自ら得た私有地での作業や自らの住宅での家事に彼らを徴用した。富と栄誉(事実上の領主権)の実現だ。 植民地の法治体制も進んだ。1511年、サントドミンゴに「聴訴院(Audiencia。司法行政院。以下、アウディエンシア)」が設立され、その長官は王室に直接任命された。これはコンキスタドルがアデランタードであろうと、司法行政面でアウディエンシア長官の下に置かれることを意味する。だが実効力を持つようになるのは1524年の「インディアス枢機会議(Consejo Supremo de las Indias)」発足の後のことだ。国王に対する諮問機関のようなもので、議員は高位貴族だったという。植民地統治体制の確立に向けた動きの一環として捉えたい。 人名表(青字はコンキスタドル) (1)
コロン(Cristóbal Colón、1451-1506)インディアス副王兼総監。カリブ海島嶼部と南米、中米沿岸部を探検。イスパニオラ島征服。 (1) バルトロメ・コロン(Bartolomé Colón、(1461-1515)コロンの第二航海に参加しイスパニオラ島征服に当たる。
|
ラ米の政権地図 | ラ米略史 | コンキスタドル(征服者)たち | ラ米の人種的多様性 | ラ米の独立革命 |
カウディーリョたち | ラ米のポピュリスト | ラ米の革命 | ラ米の戦争と軍部 | 軍政時代とゲリラ戦争 |
ラ米と米国 | ラ米の地域統合 |