キューバ島とアステカ王国の征服 |
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征服開始時点でのキューバ島の先住民人口は、イスパニオラ島同様、判然としない。島の大きさから考えて、同島より少なかったとは思えない。部族的には同じタイノ族、及びやはりアラワク系のシボネイ族で、全島制圧には相当な年数を要したが、イスパニオラ島ほどにはかからなかった。ジャマイカ征服にも関ったナルバエス(2)が副官だった。彼にラスカサス(3)も同行し、先住民虐殺事件で強く非難したことが知られる。 キューバの先住民も、やはり激減の一途を辿った。1517年2月、サンティアゴデクーバ(1514年建設。バラコアから総督府が移るのは1522年)から西方に向ったコルドバ(1475?-1517)率いる100名の遠征隊の目的は、先住民狩りだったとも言われる。翌月、ユカタン半島に到着した。遠征そのものはユカタン先住民(マヤ人)との幾度かの戦闘で隊員の大半を失った上で退却し終わった。コルドバは帰還後ほどなくして死去するが、同地の高度文明が報告されキューバでは色めき立った。ベラスケスはグリハルバ(1490-1527)率いる第二次遠征隊を翌18年にも出した。この時も失敗したが、グリハルバ隊はメキシコ湾岸を北上したことで、「アステカ王国」の存在も知る。 1519年2月、コルテス(4)率いる遠征隊がハバナ(1515年、カリブ海側の海岸に建設。現在地になったのは19年であり、コルテスが出たのはカリブ海側だろう)を出帆した。兵力500人、と言われる。ベラスケスは遠征許可を取り消したが、これを無視した。
コルテスは、チョルラの大虐殺でも悪名高いが、国際的に厳しく糾弾されるようになるのは入城後の徹底的なテノチティトラン破壊だ。アステカ王国そのものが消滅し、スペイン領「ヌエバイスパニア」となり、廃墟となった旧王都跡にメキシコ市建設が始まる。この年、スペイン国王はコルテスをヌエバイスパニア軍務総監兼最高司法行政官に任じた。36歳の若さだった。 人名表(青字はコンキスタドル) (1) ベラスケス(Diego
Velazquez de Cuellar、1465-1524)キューバ征服。インディアス総監の頭越しにアデランタードとなる。 (2) ナルバエス(Panfilo de
Narvaez、1470-1528)ベラスケス副官。後年、フロリダのアデランタードに任じられ、1527年征服に赴き、同地で死去。 (3) ラスカサス(Bartolome de Las Casas、1484-1566)エンコミエンダ制を批判し、後にドメニコ会士となり先住民保護に尽力。 (4) コルテス(Hernan
Cortes、1485-1547)アステカ王国の征服。ヌエバイスパニアの最高権力者としては5年間のみの在任。
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