南米北部とインカ帝国の征服 |
|||||||
ピサロは、1522年にコロンビア探検隊がパナマに帰還した時、高度文明を持ったインカ帝国の存在を聞かされた、といわれる。丁度コルテスによるアステカ王国征服が喧伝されていた時期だ。コルテスより10歳ほど年長で、新世界移住は2年早かった。19年にペドラリアスからパナマ市のアルカルデ(alcalde、市長に相当)に任じられたが、バルボア逮捕の論功行賞とも言われる。彼が行ったインカ帝国征服までの主要事項を下記する。
ピサロは、「黒い伝説」の代表格だろう。コルテスと比較して、より残忍とのイメージが強い。だが、共同遂行者たるアルマグロとの分担、計画実行に関る用意の周到さ、踏破した距離の凄まじい長さ、インカ皇位継承戦争に乗じた征服と、総督府としての海岸都市建設、など高度な戦略性の方にこそ、注目したい。彼も侯爵に列されたが、仲違いしたアルマグロの一派に暗殺された。ペルー内乱を惹き起こした弟ゴンサロ(3)など、ピサロ家には暗い陰がつきまとう。 1534年、帝国の第二皇都たるキトに戻っていたインカ軍の討伐を進めたのは、ニカラグア征服から2年前にピサロ隊に合流していたベナルカサル(1480-1551)、及び、グァテマラ総督の前出、アルバラードだった。これにアルマグロも合流した。征服は成り、アルバラードはグァテマラに戻り、アルマグロは南下して北部ペルーを平定(途中建設した拠点都市を、ピサロの出身地に因み、トルヒーヨと名付ける)した上でクスコに戻っていった。ベナルカサルは北上し、コロンビア南部を平定しパストやポパヤンを建設している。 1536年、ケサダ(4)がスペインから直接、大遠征隊を率いサンタマルタに到着、陸上隊とマグダレナ河川航行隊とに分かれ、先住民同士の敵対関係に便乗しつつ、比較的文明度の高いチブチャ王国を平定した。38年にはその首府バカタ再建を兼ねた現ボゴタの建設に取り掛かる。39年、南部から北上したベナルカサル、コロから入った前述のフェーダマンと遭遇し、コロンビアにおける三人の支配地域を取り決めた、とされる。 1541年2月、キト総督に就いたピサロの弟、ゴンサロ(前述)が「エルドラド(El Dorado。黄金郷)」探検隊を繰り出した。その副官となったのがオレヤーナ(1511-46)である。キトから現ペルー北部を東南に進んだ。ゴンサロ本体は1年後キトに戻るが、オレヤーナは探検を継続しアマゾン水系に至り、42年8月にはアマゾン河口に出た。アマゾンを初めて航行したヨーロッパ人、として記憶される。後に帰国し、王室よりヌエバアンダルシアのアマゾン地方アデランタードに任じられ、45年にスペインからの遠征隊を率いたが、結果的には失敗した。 人名表(青字はコンキスタドル) (1) ピサロ(Francisco Pizarro González、1476?–1541)インカ帝国を征服。アデラ
|
ラ米の政権地図 | ラ米略史 | コンキスタドル(征服者)たち | ラ米の人種的多様性 | ラ米の独立革命 |
カウディーリョたち | ラ米のポピュリスト | ラ米の革命 | ラ米の戦争と軍部 | 軍政時代とゲリラ戦争 |
ラ米と米国 | ラ米の地域統合 |