イスパニオラ島の征服と南米沿岸部への展開 |
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コンキスタドルとしてのコロンの業績は、イスパニオラ島征服における先住民に対する収奪と虐待、と不名誉なものだ。同島に派遣された査問官により兄弟とも逮捕され、協約書が破棄された。そして、王室はオバンド(1)をインディアス総監に任命した。コンキスタドルではない総監としては、初代だ。1502年、移住者を含む2,500人を引き連れて着任した。エンコミエンダ制は彼が王室に提言し実現した制度である。 オバンド在任期間は、コロン兄弟が成し得なかったイスパニオラ島平定期に相当する。この島には金の鉱脈があり、それなりに魅力があった。先住民は現コロンビア、ベネズエラ西部沿岸地帯同様のアラワク系タイノ族と、ベネズエラ東部沿岸地帯同様のカリブ族だったといわれる。お互い反目しあい、スペイン人はタイノ族を味方したが、その後はエンコミエンダ制のもと、先住民全体が酷使の対象となる。これに疫病が加わり、激減した。定量的な信用に足る資料は無く極めて大雑把だが、コロン到着時数十万だった先住民は、オバンド任期終了時数万だった、というのが常識的な見方のようだ。近隣諸島で先住民狩りが行われ、或いはアフリカから黒人を輸入し、労働力を補強していた。スペイン人は、エンコメンデロかその一族郎党か、兵士、聖職者、行政官、医師、技師、商人などで、農牧業や土木事業など肉体労働は忌避した。 ディエゴ着任の1509年、オヘダ(1468-1515)が南米のヌエバアンダルシア(コロンビアのウラバ湾より東の地域)、またニクエサ(?-1511?)がベラグア(同湾から現ニカラグアに至る中米地域)に向け、夫々の遠征隊を率いて出発した。それ以前、ガルバン・デラ・バスティダ(1460-1527)、及びオヘダ自身らが探検していたが征服への着手が遅れていた地域だ。 なお、「太平洋」とは1520年10月にマゼラン(5)が南米陸地の南端沿いに西に通過した時にEl Mare Pacificumと呼んだことから来ている。 人名表(青字はコンキスタドル) (1)
オバンド(Nicolás de Ovando y
Cáceres、1460-1511)行政官としての最初のインディアス総監。 (2) ポンセデレオン(Juan Ponce de León、1460-1521)プエルトリコ征服。後にフロリダ遠征を試みるが失敗。 (3) バルボア(Vasco Núñez de Balboa、1475- 1519)オヘダ南米遠征隊に参加し、パナマを征服。地峡横断で太平洋に出た最初のヨーロッパ人。現在のパナマの通貨は彼の名前に因む。 (4) ペドラリアス(Pedrarias Dávila、若しくはPedro Arias de Ávila、(1460?-1531)行政官として派遣されたベラグア総監。 (5)
マゼラン(Hernando de
Magallanes、1480-1521)スペイン国王にモルッカ(香料島)までの西回り航路開拓を進言、船団を率いたポルトガル人航海士。本人はフィリピンで殺害されるが、生き残り組は海路世界一周成功
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