南米南部の征服 |
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1540年、勝ったピサロ派に属するバルディビア(1)が、チリ遠征を再開した。41年6月、アルマグロの遺児を中心とするアルマグロ派(Almagristas)がピサロを暗殺した時は、4ヶ月前に建設したばかりのサンティアゴを拠点に、新領土平定に尽力しており、リマ帰還はしていない。勇猛なマプチェ人による襲撃が繰り返され、チリ征服は多大な時間と犠牲を伴う大事業になっていた。 その半世紀前の1500年に、ポルトガル人カブラル(1467-1520)が漂着してヨーロッパに知られるようになったブラジルだが、その後20年ほどは大西洋沿岸のごく一部にパウ・ブラジルと呼ぶすおう種の木材伐採のための植民が細々と行われる程度で、先住民とは牧歌的な関係だった、という。 ピサロがインカ帝国を征服した1530年代、スペインでは、ペルーに至るにはパナマ地峡を通り抜けるよりも、ラプラタ水系を遡行するのが効率的、との見方も生じていた。1534年央、高位貴族の出であるメンドーサ(3)がラプラタ一帯のアデランタードに任じられ、ソリスやマゼランと同じ航路を使い、同地を征服する役割が課せられた。彼の、十数隻の大船団から成る遠征隊がラプラタ河口に到着したのは36年1月のことで、丁度アルマグロがチリ征服に乗り出した頃だ。グァラニ系先住民との戦いはラプラタ流域でも同様で、メンドーサ自身は37年4月には帰国へと引き返す。 チリも現アルゼンチンも、夫々マプチェ系、グァラニ系先住民の抵抗が激しく、スペインによる征服は困難を極めた。コンキスタドルたちは、それなりにエンコミエンダを得たし、インディアス新法も適用されなかったが、征服地の先住民人口自体が急減、銀産出もなく、魅力に乏しかった。結局チリの南半分、及びアルゼンチンの内陸部やパタゴニアの征服は、先送りされることとなる。
(1) バルディビア(Pedro Gutiérrez de
Valdivia、1500 -1553)アラウコ戦争に代表される困難さで知られるチリ征服に生涯をかけた。 (2) ガスカ(Pedro de La Gasca、)第二代ペルー副王(在位1546-51)。ゴンサロの乱を制圧し、植民地統治の正常化に成功。 (3) ペドロ・デ・メンドーサ(Pedro de
Mendoza y Luján、1487-1537)ブラジル沖航路を経て南米征服を試みた初めてのスペイン人。 (4) ガライ(Juan de Garay、1528 -1583)ブエノスアイレス建設で知られるが、アンデス東麓平定に実績多いコンキスタドル
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