南米南部の征服


 1535年、キト征服後ペルー北部を平定してクスコに帰還していたアルマグロが大隊を率いチリ遠征に出立した。だが先住民マプチェ(アラウコ)人との苦戦、留守中のクスコで起きたマンコ・インカによる実権奪回のクーデターなどで37年早々に帰還、その後クーデターを転覆していたピサロ派(Pizarristas)との抗争に発展、彼自身は387月に処刑された。

1540年、勝ったピサロ派に属するバルディビア1)が、チリ遠征を再開した。416月、アルマグロの遺児を中心とするアルマグロ派(Almagristas)がピサロを暗殺した時は、4ヶ月前に建設したばかりのサンティアゴを拠点に、新領土平定に尽力しており、リマ帰還はしていない。勇猛なマプチェ人による襲撃が繰り返され、チリ征服は多大な時間と犠牲を伴う大事業になっていた。
 1544年、メキシコに9年遅れて、パナマ以南を管掌する副王府がリマに創設された。それ以前にエンコメンデロの既得権を侵害するインディアス新法が公布され、キト総督のゴンサロ・ピサロを旗印にしたエンコメンデロの反発が高まっていた。こうして、46年、ゴンサロの乱(ペルー内乱)が起き、初代副王は戦死したが、バルディビアは翌47年にペルーに帰還、二代目副王のガスカ(2)に付いた。ガスカが掲げた恩赦と新法不適用はエンコメンデロ側の態度を軟化させ、ゴンサロ処刑で乱は収束する。
 1549年、バルディビアはチリのアデランタードに任じられ、チリ征服に復帰、50年までにコンセプシオンまで支配地域を拡大したが、いわゆる「アラウコ戦争」は続き、彼自身は53年に捕虜となり処刑された。チリ征服は彼の副官たちによって継続される。

その半世紀前の1500年に、ポルトガル人カブラル(1467-1520)が漂着してヨーロッパに知られるようになったブラジルだが、その後20年ほどは大西洋沿岸のごく一部にパウ・ブラジルと呼ぶすおう種の木材伐採のための植民が細々と行われる程度で、先住民とは牧歌的な関係だった、という。
 ブラジル沿岸をさらに進み、1516年にラプラタ河口に到ったのは、ポルトガルの航海士、ソリス(1470-1516)が率いる探検隊である。当時のフェルナンド・スペイン国王により派遣された。彼自身は同地で死亡し、生き残りの隊員は帰国した。次にこの地に着いたのは、アジア行き南米沖西回り航路を開拓中のイタリア人航海士マゼランで、その4年後の1520年だった。

ピサロがインカ帝国を征服した1530年代、スペインでは、ペルーに至るにはパナマ地峡を通り抜けるよりも、ラプラタ水系を遡行するのが効率的、との見方も生じていた。1534年央、高位貴族の出であるメンドーサ3)がラプラタ一帯のアデランタードに任じられ、ソリスやマゼランと同じ航路を使い、同地を征服する役割が課せられた。彼の、十数隻の大船団から成る遠征隊がラプラタ河口に到着したのは361月のことで、丁度アルマグロがチリ征服に乗り出した頃だ。グァラニ系先住民との戦いはラプラタ流域でも同様で、メンドーサ自身は374月には帰国へと引き返す。
 メンドーサ隊の残留部隊が、ラプラタ水系を遡行しチャコ地帯に至り、同年8月、アスンシオンを建設、以後の征服拠点としたものの、結果的に、ラプラタ河口からペルーまでの、いわゆる「銀(La plata)の道」開拓は、南米南部の広大さとアンデスの峻厳さに阻まれる。アスンシオンはペルー副王管轄に組み入れられた。実効支配地域は現パラグアイのみで、まさしく僻地だった。
 ペルー内乱収束後の155060年代にアンデス東麓の地が平定され、多くの都市が建設された。トゥクマン征服やサンタクルス建設に関ったガライ4)がアスンシオンに移ったのは1568年のことだ。その後もサンタフェを築き、1580年には、メンドーサが要塞を築きながら先住民の襲撃に耐えかねて棄却していたブエノスアイレスの地に行政都市を建設する。漸くラプラタ河口に実効支配を及ぼせることとなった。

チリも現アルゼンチンも、夫々マプチェ系、グァラニ系先住民の抵抗が激しく、スペインによる征服は困難を極めた。コンキスタドルたちは、それなりにエンコミエンダを得たし、インディアス新法も適用されなかったが、征服地の先住民人口自体が急減、銀産出もなく、魅力に乏しかった。結局チリの南半分、及びアルゼンチンの内陸部やパタゴニアの征服は、先送りされることとなる。


人名表(青字はコンキスタドル

(1) バルディビアPedro Gutiérrez de Valdivia1500 -1553)アラウコ戦争に代表される困難さで知られるチリ征服に生涯をかけた。

(2) ガスカ(Pedro de La Gasca、)第二代ペルー副王(在位1546-51)。ゴンサロの乱を制圧し、植民地統治の正常化に成功。

(3) ペドロ・デ・メンドーサPedro de Mendoza y Luján1487-1537)ブラジル沖航路を経て南米征服を試みた初めてのスペイン人。

(4) ガライJuan de Garay1528 -1583)ブエノスアイレス建設で知られるが、アンデス東麓平定に実績多いコンキスタドル

 

征服と植民地制度 イスパニオラ島の征服と南米沿岸部への展開
キューバ島とアステカ王国の征服  メキシコ北西部及び中米の征服 
南米北部とインカ帝国の征服  南米南部の征服 

 

ホーム     
ラ米の政権地図  ラ米略史  コンキスタドル(征服者)たち  ラ米の人種的多様性  ラ米の独立革命
カウディーリョたち  ラ米のポピュリスト  ラ米の革命  ラ米の戦争と軍部  軍政時代とゲリラ戦争 
ラ米と米国   ラ米の地域統合