ボリーバル(以下、別掲ラ米の独立革命で挙げる独立革命家は紫字で表示)は、1815年に彼が書いた有名なジャマイカからの手紙で、自治制度が確立した米国の体制は参考にならないことを既に示唆していた。実態としてラ米諸国の建国期はどこも内乱が頻発し、その多くは、カウディーリョ同士の権力闘争だった。国家統合に向う黎明期のラ米諸国で、政情不安をももたらした。一方で、カウディーリョによる強権で統一国家体制に漕ぎ着けられた国もある。以下に代表的カウディーリョを記す。スペイン系ラ米18ヵ国の内の9ヵ国のみ、一人ずつを挙げるが、各国には彼らと同時期に活躍したカウディーリョは他にも多い。また勿論、残る9ヵ国にも登場した。
国 |
名前 |
生~没年 |
パラグアイ |
フランシア(José Gaspar Rodríguez de Francia) |
1766-1840 |
メキシコ |
サンタアナ(Antonio
López de Santa Anna) |
1794-1876 |
アルゼンチン |
ロサス(Juan Manuel de Rosas) |
1793-1877 |
ベネズエラ |
パエス(José
Antonio Páez) |
1790-1873 |
エクアドル |
フロレス(Juan José Flores) |
1800-64 |
ボリビア |
サンタクルス(Andrés de Santa Cruz) |
1792-1865 |
ペルー |
ガマラ(Agustín
Gamarra) |
1785-1841 |
グァテマラ |
カレラ(José Rafael Carrera Turcios) |
1814-65 |
ドミニカ共和国 |
サンターナ(Pedro Santana y Familias) |
1801–64 |
独立革命戦争で頭角を現したのは、激烈な戦乱を経たアンデス諸国でベネズエラ人のパエスとフロレス、ペルー人のガマラとボリビア人のサンタクルスの4名を挙げたい。
ボリーバルが建国したグランコロンビアから、1829年11月(宣言ベース)にはベネズエラが、翌30年5月(同)にはエクアドルが分離独立した。これを主導したのは前者がパエス、後者がやはりベネズエラ人のフロレスである。パエスはもともと強力な私兵団を配下に持ちボリーバルの独立革命推進に早くから貢献してきた。フロレスはボリーバルによりキト軍政官に任命された人で、パエスとは性格が異なる。彼らの生国、ベネズエラは西部に広大なリャノ(llano。大湿原)を舞台に活躍するバケロ(vaquros。牧童)ら、いわゆるリャネロ(llaneros)の大地、と言える。
ボリーバルの副官、スクレの活躍で解放されたペルーとボリビアでは、ペルー人のガマラが1828年4月にボリビアに侵攻、終身大統領だったはずの彼を追放、ペルーへの影響力もあるボリビア人のサンタクルスをその後任に就け、自らもその後ペルー大統領に就いた。ところが後に後者が前者を追放し、翌36年6月までに自らが樹立した「ペルー・ボリビア連合」の最高権力者に就き、対チリ戦争に負けて連合解体、失脚、一方で前者が復権してボリビア併合を目論み失敗した。いずれも失権中に亡命経験を持つ。フロレスは帰国し保守主義体制樹立に貢献、パエスとサンタクルスは外国で天寿を全うし、ガマラはボリビア侵攻の際に戦死した。
アンデス諸国ではコロンビアもカウディーリョを輩出し、建国後の内乱頻発をきたしている。ただ上記4名の如くラ米史上の知名度は低く割愛する。チリは比較的早い時期に立憲体制が固まり、カウディーリョの活躍する場が少なかった。
同様に激烈な戦乱を経験したメキシコにも勿論いるが、建国後の活躍が上記4名ほどには目立たず、寧ろ建国後の帝政反対で蜂起したサンタアナを挙げた。1836年2月、アラモ砦の守備兵を全滅させた将軍として米国でも有名だ。中米にもいたが、ここでは建国後の解体を招いたグァテマラのカレラを例示するにとどめる。カリブ島嶼部では、同じ島にあるハイチから独立したドミニカ共和国が、カウディーリョのサンターナがスペインによる再植民地化に突き進んだ、と言う意味で特殊だ。キューバは米国の保護国としてスタートしたため、建国の立役者がカウディーリョとして活躍する場は少なく、割愛する。
サンタアナは失脚及び亡命と復権を繰り返し、最終的な失脚後も亡命し、外国で死去した。カレラは終身大統領として国内で天寿を全うし、サンターナも国内で死去している。
カウディーリョが輩出したことで際立つのは、アルゼンチン、パラグアイ及びウルグアイのラプラタ諸国だ。ベネズエラのバケロと同意義のガウチョ(gaucho牧童)が活躍するパンパ(pampas。大草原)を持つ。独立革命を指導した人でカウディーリョとして有名なのが、モンテビデオにラプラタ副王軍の拠点があったウルグアイのアルティガスだが、ここでは省き、もう一人のパラグアイのフランシアを入れた。1816年の独立宣言は、ラプラタ諸州連合としてであり、この年、ウルグアイはブラジルに占領され、後に併合された。その前の段階でパラグアイは主権国家として独立していた。残るアルゼンチンにも、州ごとに強力なカウディーリョがいて、中央政府への従属関係を拒んだ。
若年時代だった独立革命期こそ名を成せなかったが、ラ米で最もカウディーリョらしいカウディーリョがアルゼンチンのロサス、と言う点では史家の認識は共通しているようだ。ウルグアイは「アルゼンチン・ブラジル戦争」(別掲「ラ米の軍部と戦争」の独立黎明期の戦争照)の結果、建国された。一方アルゼンチンでは、皮肉なことに州を支配するカウディーリョ同士が結束して、国家統合を図る勢力との内戦を続けた。これがウルグアイを巻き込んだ。
フランシアはグァテマラのカレラ同様、終身独裁官のまま国内で死去し、ロサスは失脚後渡英し、同地で天寿を全うした。
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