植民地時代

 
 149210月のコロンブス*1)による新世界発見の後、1494年、ローマ法王アレクサンデル六世の裁定で、アフリカ大陸沖西370レグア(約2千キロ)の子午線をもって、東側をポルトガル、西をスペインの境界線と成す、とする「トルデシリャス条約」が結ばれた。国家体制が未整備の領域は両国が支配できるとする、いわば世界分割条約だ。北はアマゾン河口より若干東側の地点から南はサンパウロ南東にあるサントス辺りを結ぶ南北の線が、いわばトルデシリャス線となるようだ。そのブラジルは、その時点では存在そのものが知られておらず、1500年になってカブラル*2)により漸く発見された。ただポルトガルは当時、独壇場となっていたアジア交易の方を重要視しており、王室のブラジルに対する関心は低かった。植民地時代を俯瞰すると;

  • スペイン植民地:征服期、貴金属鉱山発見を経て、植民地統治体制が十六世紀央までに整い、本国を世界最強国として繁栄させる原動力となった。十七世に入ると、北米と、カリブ島嶼部の多くをイギリス、フランス、オランダに奪われ、南米はブラジルに侵食される。
  • ブラジル1549年になって漸く総督府が開かれる。十七世紀に入り、奥地への遠征隊がトルデシリャスを越え、実効支配地域を拡大した。十七世紀末より貴金属などの発見で急速な経済発展を遂げていく。

(1)1580年まで

スペインの植民地支配は、スペインのイダルゴ(hidalgo)と呼ばれる郷士階級の人たちを中心として、首長制が定着していた先住民社会の征服から始まった。彼らをコンキスタドル(Conquistador別掲のコンキスタドル(征服者)たち 参照)と呼ぶ。先住民は、征服されたらカトリック王国のスペイン国王の新たな臣民となる。その教化に、ドメニコ会、フランチェスコ会、イエズス会など宣教団が関わる。また王国は、植民地統治体制の確立も急いだ。
 
1502年、初代の総督がイスパニオラ島のサントドミンゴに着任、先ずは先住民統治制度をスタートさせた。一定の領域に住む先住民を、国王からの委託(encomendar)の形で、現地在住のスペイン人に割り当てる「エンコミエンダ(Encomienda)」がそれだ。非委託者をエンコメンデロ(Encomenderoと呼ぶ。委託の中身は先住民保護と教化であり、その見返りに先住民から人頭税を得、また労務を提供させる。事実上の事実上の領主たる名誉と、富を得た。一方で教化活動は教会に委ね、徴税は先住民の首長を起用し、自らは都市に居住した。エンコミエンダに適した先住民社会は、一定の首長制の下に定住農耕型に限定される。自ら宣教村を築き、宣教は先住民の言葉で行い、彼らを生産活動に従事させるための大農園を経営する教会もあった。

  1511年、同じくサントドミンゴに司法と行政を担うアウディエンシア(Audiencia。聴訴院が設けられ、その後も主要都市に設置されていくが、その内のメキシコ市、及びリマに、夫々153511月及び1544年3月、高位貴族が勅任された副王派遣されて来た。また同様に、1560年にグァテマラとハバナに軍務総監も派遣された。こうして、スペイン植民地は副王が夫々の地域を管掌し、軍務総監が分掌し、アウディエンシアが行政を担い、都市ごとに総督を置く体制が確立する。
 1545
年のポトシ(現ボリビア)、翌年のサカテカス(メキシコ)の大銀山発見はヨーロッパからの移住者の急増を呼び、スペインの世界最強国としての地位を確固たるものにした。アウディエンシアは1565年までに計9箇所に設けられ、その直属の代官としてコレヒドル(corregidor)が各地に派遣され、定住白人やクリオーリョ(現地生まれの白人)から成るカビルド(Cabildo。市会、若しくは参事会と訳される。自治組織ではあるが、権限は著しく制限される)を主宰した。また先住民からの徴税にも関わるようになると、エンコメンデロの地位が相対的に下がり、金と銀が牽引する植民地に変貌する植民地にあって、副王を頂点とする統治体制が強化された。メキシコからはフィリピン遠征隊まで派遣され、1571年にはこの地を植民地に収める。
 この当時、本国との交易はメキシコ(ベラクルス)ルートと南米(パナマ)ルートで夫々年一回ずつ、いずれもハバナを中継地とし、護送船団(商船団を艦隊が護衛する)方式で行われていた。フィリピンを経由してアジアとも繋がり、年二回ずつの交易を行い、本国への輸出品目にはアジア産品も加わった。本国帰還船は貴金属満載の宝船、とみて、交易船団や交易港を襲撃する海賊も現れた。記憶したいのはジョン・ホーキンスやフランシス・ドレークらイギリス人奴隷商人で、英王室から私掠免状(Privateer。対敵国襲撃での利益獲得を公認する免状)を得、後年Sir(卿)の称号を得た。

ポルトガル領域となったトルデシリャス線以東は、1536年までにブラジルを大西洋岸に沿っ15分割し、「カピタニア」として、夫々の開発特許を、特定の貴族らに、司法権、徴税権、土地分与権付きで与え、植民地経営を彼らに委ねる形を採った。彼らをドナタリオ(Capitaõ donatario。「柵封長官」ほどの意味か)と言う。定住農耕型の先住民社会が無く、ブラジル原産と言えば染料として利用する灌木、パウ・ブラジル位しか無く、本国人にも関心は薄かった。ドナタリオは経営を有力入植者に広大な土地を分与し、経営は再委託した。セズマリア(Sesmarias)という。これが、アフリカ植民地から持ち込んだ苗でサトウキビを栽培、精製する砂糖産業育成に繋がった。
 砂糖産業は複合農園(プランテーション)が前提だ。労働には奴隷を充て、プランテーション主は現地の豪壮な邸宅に居住した。奴隷は先住民、またトルデシリャス条約で植民化が認められたアフリカから輸入した黒人たちだ。

 1549年、ドナタリオが空席だったバイアのサルヴァドルに初代総督が着任、宣教団も同行し、王室による植民地統治が漸く始まった。だが、
統治機構としてはスペイン植民地に比べるべきものではない。 

(2)1580-1640

1580年から60年間、スペイン国王がポルトガル国王を兼ねる。つまり、文字通り七つの海を支配することとなる。ところが、同時にスペインの凋落が始まった。1588年、無敵艦隊がイギリスにより撃退される。イギリスはその4年後には東インド会社を設立しポルトガル権益たるアジアに進出、さらにその10年後にはオランダも続いた。スペイン王室が1595年にポルトガル商人にアシエントasientoと呼ばれる奴隷輸入許可を付与、スペイン植民地への奴隷輸入が本格化し、一方でブラジルでも1607年、漸く、スペイン植民地のアウディエンシアに相当する機関、レラサンRelaçaõがサルヴァドルに設置された。
 ところがその1607年、イギリスがヴァージニア植民に乗り出し、翌年にはフランスがケベックを建設した。要するにスペイン・ポルトガルは新世界の占有権を失った。1581年にスペインから独立を宣言していたオランダが1621年に設立した西インド会社は、ピート・ヘイン艦隊を出動させ、サルヴァドル襲撃を繰り返し、1628年にはスペイン交易船団襲撃と掠奪を成功させている。同社は1630年からブラジル東北部を占領していた。この間イギリスは北米大陸部の植民を進める一方、フランス共々、カリブ島嶼部に入植団を送り込む。要するに、スペインの海域支配力の弱体化を招いた。


 スペイン植民地とブラジルには、本来トルデシリャス条約線とも言うべき境界が存在していたが、支配下の筈のポルトガル人はこれを難なく越える奥地探検を進め、支配下に収めた。エントラダEntrada。公営)バンデイラBandeira。民間)と呼ばれる遠征事業で、実態はスペイン植民領東部への実効支配、といえる。このように、スペインは本来支配下のポルトガル人統制にも綻びが目立っていた。
 ただ全体としてはスペイン植民地の経済は順調な発展を遂げる。エンコミエンダは衰退したが、十六世紀末よりアシエンダ(Hacienda)と呼ばれる大土地所有が広がり、農畜産が発達、賃労働が一般化し、軽工業や食品工業も緒に就いて来た。

(3)1640年~十八世紀末

1640年、ポルトガルがスペインから独立した。当面の課題はブラジル東北部を占拠したオランダ追放だ。これは、1652年に起きた第一次英蘭戦争、及び占拠下の砂糖業者らの反乱に乗じて大軍を派遣し、1654年に実現を見た。この繋がりの中で、イギリスとの関係が深まり、ポルトガル商船の独占であるブラジルの貿易を、英国船にも開放した。一方、砂糖業者の一部がカリブ諸島に移り、砂糖産業が島嶼部の基幹産業に発展して行き、ブラジルにとり脅威的な競争相手に育ち始める。
 そのカリブ海域ではバカニア(Buccaneer)と呼ばれる、いわゆる「カリブの海賊」が域内の小島を拠点に跋扈していた時代、1655年にイギリスが現ジャマイカを、1665年にはフランスがイスパニオラ島の西部(現ハイチ)を奪取した。この時点で、同海域のスペイン支配地はキューバとイスパニオラ島東部、及びプエルトリコだけとなる。有名なバカニアとして、1671年にパナマ地峡を蹂躙して回り、後にジャマイカ総督になったイギリス人、ヘンリー・モーガンの名は記憶したい。南米では、ブラジルのバンデイラがラプラタ川流域にまで入り込み、イエズス会の布教集落への襲撃を繰り返していた。これに業を煮やしたスペインは、ポルトガル独立を1668年まで承認しなかった。
 1680年、ポルトガルがラプラタ河岸にコロニアを建設すると、対岸のブエノスアイレスの商人が、イギリスを背後にしたブラジルの商船との直接取引を行う様になった。カリブ海域にはイギリス、フランス、そしてオランダの商船が動いており、カリブ沿岸などでは彼らとの取引も行われていた。商品堅固な交易体制に、綻びが生じる。
 
 1693年、ブラジルのミナスジェライスで金鉱が発見され、十八世紀に入っても金鉱やダイアモンド鉱脈の発見は続いた。これが移住者を呼び、農畜産などの他産業を招き、経済発展を促したことは、スペイン植民地でも見た通りだ。ポルトガル王室は、1720年にサルヴァドルの総督府を副王府に格上げした。

 一方スペイン王室は、1700年、国王をフランス王家(ブルボン家)から迎え、スペイン船に限定されていた植民地交易はフランスに、また「スペイン継承戦争」の終った1713年からは30年間、イギリスにも開放した。従来の護送船団のパナマルートでは疎外されていたラプラタ(現アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイ、ボリビア)、及び現ベネズエラ(カカオ生産が伸長していた)の貿易量が急伸する。1740年になると本国とのパナマルート交易船団は廃止された。 

 スペイン王室のいわゆる「ブルボン改革」の一環で、1739年にアンデス北部(現コロンビア、ベネズエラ、エクアドル)を管掌する副王がボゴタに、1777年にはベネズエラを分掌する軍務総督がカラカスに派遣される。その前1776年、ラプラタを管掌する副王がブエノスアイレスに派遣された。1776年独立宣言を出したイギリス北米植民地の革命戦争では、スペインはフランスとともに植民地側を支援、援軍を派遣する。

 ブラジルでは十七世紀後半に活躍した宰相の名に因んだ「ポンバル改革」の一環として、1759年にカピタニア制度を廃止、1774年、副王府をリオデジャネイロに移した。ポルトガルは同盟関係にあったイギリスを支援、北米独立後ブラジルがそれまでの北米に代わりイギリスの綿花供給源となる。

 1777年、スペインとポルトガルは
「サンイルデフォンソ条約」で、両国植民地の領域を、ほぼ現在の形に画定した。以後、両植民地ではかなり異なった形で、独立革命に突き進むことになる。この点は別掲「ラテンアメリカの独立革命」の独立前夜で述べる。

人名表

(*1) コロンブスCristóbal Colón1451-1506)、1492年の新世界発見後、四回に亘
   って
探検航海
(*2カブラルPedro Alvares Cabral1467-1520)、ポルトガルのアジア航路船団
   長。
1500年、ブラジル発見



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