ラ米確立期(1860-1910年代) |
||||||||
(1)抗仏戦争(1862年4月~67年3月):メキシコ 1857年2月、フアレスを指導者とする自由主義派によるレフォルマ(改革)運動の集大成として憲法が公布された。これに保守派が抵抗、レフォルマ戦争(1858年1~61年1月)という内戦に発展したが、前者がこれを制し彼は大統領に選出された。敗れた保守派は、ヨーロッパから君主担ぎ出しを図る。61年11月、メキシコの債権問題を理由としてスペイン、イギリス、フランス軍がベラクルスに上陸する。フアレス政権との交渉結果、翌62年2月、スペイン、イギリス軍は撤収した。だがフランス軍が残った。フランス皇帝のナポレオン三世が、上述のメキシコ保守派の運動に乗る形でオーストリアのマクシミリアン大公をメキシコ皇帝に推したてた。フランス軍のメキシコ展開は不可欠でこれが抗仏戦争の発端となる。米国が南北戦争に入って2年目、米州の問題に対する欧米諸国の介入を拒否するモンロー宣言は、発動しようがなかった。 フランス軍の首都進撃開始後、フアレス政府は首都を脱出、代わってマクシミリアンがメキシコに到着しマクシミリアノ一世として即位する。ハプスブルグ家帝政(64年5月~67年5月)である。その1年後、米国の南北戦争が終わった。同年8月、米国がフランスにメキシコ撤退を要求した。一方でフアレス側に武器及び志願兵を提供、これ以降抗仏戦争はフアレス側に有利に展開するようになる。時間が掛かったが、翌66年4月、ナポレオン三世がフランス軍のメキシコ撤収を表明、これは67年3月に終了した。同年6月、フアレス政府は残っていたマクシミリアンを処刑、翌月首都に帰還する。 ニカラグアとは逆に、メキシコではこうして保守派が政治から退場した。 (2)パラグアイ戦争(1864年12月~70年3月) 1863年、ウルグアイのコロラド党のカウディーリョ、フロレス(*1)元大統領が武力蜂起、内戦に入った。彼は、アルゼンチンのミトレ(*2)政権の支援を受けていた。翌64年4月、ペドロ二世治下のブラジル政府が、国境地帯での両国農民同士の抗争で被害を蒙ったとして、ウルグアイのブランコ党政府への賠償請求を行った。フロレス支援に繋がる。同年8月、ブランコ党政権はパラグアイのソラノ・ロペス大統領に両者間の仲介を要請、ブラジルは同大統領の仲介を拒否、10月、ウルグアイに進軍を開始した。ラプラタ水系の勢力均衡崩壊に繋がり自国の国益を損なう、とみるパラグアイが、同12月、ブラジル帝国に宣戦する。 パラグアイは人口で20倍、圧倒的な大国を相手にするわけだが、富国強兵策により優れた兵力と先進的兵器を有する、当時では軍事大国に育っていた。ところが翌1865年2月、ウルグアイがブラジルに降伏、コロラド党が政権を奪還し、パラグアイ戦争ではブラジル側に付くことになる。65年5月以降、パラグアイと、同盟を結んだブラジル、アルゼンチン及びウルグアイとの「三国同盟戦争」に発展した。緒戦はパラグアイが制した。66年になるとミトレを総司令官とする同盟軍が攻勢を強め、パラグアイ軍をアルゼンチン及びブラジル領内から撃退、今度はパラグアイ国内での戦争に移った。パラグアイ側の抵抗は激しく、アスンシオン陥落には69年1月までかかった。戦争自体の終結は翌70年3月のソラノ・ロペス戦死によって、である。それまで山岳地帯で抵抗戦を続けていた。 この戦争の特徴はパラグアイの人口が半減した、といわれるその悲惨さにある。5年以上に亘る戦争で、三国同盟側でも数万人の戦死者を出した。ブラジルとアルゼンチンは合わせて十数万平方キロにも上る新たな領土を得て、後者はほぼ現在の領域を画定、前者の領域は1903年のボリビアとの国境条約を経て画定される。 (3)第二次独立戦争(1866年1月~同9月):ペルー 1863年8月、スペインのバスク人移民が、北部沿岸部の砂糖園で農園主との争議を起こした。これを重要視したスペインは、64年になると軍艦を派遣、同年4月、重要輸出産品のグァノ(鳥の糞。肥料)の産地、チンチャ諸島を占領した。ペルー側は、一旦賠償金支払いで解決を図り条約締結にまで漕ぎ着けた。しかし、この対応を弱腰と糾弾する勢力の反乱が起き、65年4月、M.I.プラド(*3)将軍がクーデターで政権を取り、チリ、ボリビア、エクアドルとの「太平洋岸四国同盟」を締結した上で、66年1月、スペインに宣戦を布告、同年9月までに同盟軍艦隊によりスペイン艦隊は太平洋沖合から撤退した。 (4)太平洋戦争(1879年4月~チリ対ペルー83年10月、~チリ対ボリビア84年4月) チリは1879年10月頃までには制海権を確保、同年末、M.I.プラドが事実上の退陣、ダサは追放されている。80年6月頃からチリは地上戦も優位に進め、81年1月にはリマを陥落した。その後ペルー、ボリビア両国軍とも抵抗戦に入り、ペルーは83年10月のアンコン講和条約、ボリビアは84年4月の休戦条約を夫々締結した。ペルーは、やはり硝石産地であるタラパカ地方を、ボリビアは太平洋の出口そのものを失い、内陸国となる(1904年の講和条約でアントファガスタを正式に割譲)。チリは現領域をほぼ画定、硝石で潤うようになる。だが、7年後の1891年、後述の「議会の乱」が起き、立法府の行政府に対する優越を決めたいわゆる「議会共和国」時代に入る。 人名表(紫字の人名は参照) (*1)フロレス(Venacio Flores、1803-68):ウルグアイ。リベラ後のコロラド党
|
ラ米の政権地図 | ラ米略史 | コンキスタドル(征服者)たち | ラ米の人種的多様性 | ラ米の独立革命 |
カウディーリョたち | ラ米のポピュリスト | ラ米の革命 | ラ米の戦争と軍部 | 軍政時代とゲリラ戦争 |
ラ米と米国 | ラ米の地域統合 |