ラ米確立期(18601910年代)

 
 カウディーリョ時代が終わるのは国によって時間的差異が大きい。十九世紀後半は、多くで内乱も起きていた。だが、幾らか国情は一般的に安定してきた。欧米では産業革命が進み、国際交易はそれまでの帆船に代わり蒸気船が一般化し、ラ米でも鉄道が敷設され物流の大量・高速化が可能となる。米国の南北戦争(1861-65)期にフランスがメキシコに介入する。南米南部ではカウディーリョ間抗争がパラグアイを破局に追い込んだ。ペルーとボリビアは、又してもチリとの戦争に及ぶ。また、コロンビアでは自由党が何度か武力蜂起する内戦を経たが、最後の内戦は規模が大きかった。

(1)抗仏戦争18624月~673月):メキシコ

18572月、フアレスを指導者とする自由主義派によるレフォルマ(改革)運動の集大成として憲法が公布された。これに保守派が抵抗、レフォルマ戦争18581611月)という内戦に発展したが、前者がこれを制し彼は大統領に選出された。敗れた保守派は、ヨーロッパから君主担ぎ出しを図る。6111月、メキシコの債権問題を理由としてスペイン、イギリス、フランス軍がベラクルスに上陸する。フアレス政権との交渉結果、翌622月、スペイン、イギリス軍は撤収した。だがフランス軍が残った。フランス皇帝のナポレオン三世が、上述のメキシコ保守派の運動に乗る形でオーストリアのマクシミリアン大公をメキシコ皇帝に推したてた。フランス軍のメキシコ展開は不可欠でこれが抗仏戦争の発端となる。米国が南北戦争に入って2年目、米州の問題に対する欧米諸国の介入を拒否するモンロー宣言は、発動しようがなかった。

フランス軍の首都進撃開始後、フアレス政府は首都を脱出、代わってマクシミリアンがメキシコに到着しマクシミリアノ一世として即位する。ハプスブルグ家帝政645月~675月)である。その1年後、米国の南北戦争が終わった。同年8月、米国がフランスにメキシコ撤退を要求した。一方でフアレス側に武器及び志願兵を提供、これ以降抗仏戦争はフアレス側に有利に展開するようになる。時間が掛かったが、翌664月、ナポレオン三世がフランス軍のメキシコ撤収を表明、これは673月に終了した。同年6月、フアレス政府は残っていたマクシミリアンを処刑、翌月首都に帰還する。

ニカラグアとは逆に、メキシコではこうして保守派が政治から退場した。

(2)パラグアイ戦争186412月~703月)

1863年、ウルグアイのコロラド党のカウディーリョ、フロレス*1)元大統領が武力蜂起、内戦に入った。彼は、アルゼンチンのミトレ*2)政権の支援を受けていた。翌644月、ペドロ二世治下のブラジル政府が、国境地帯での両国農民同士の抗争で被害を蒙ったとして、ウルグアイのブランコ党政府への賠償請求を行った。フロレス支援に繋がる。同年8月、ブランコ党政権はパラグアイのソラノ・ロペス大統領に両者間の仲介を要請、ブラジルは同大統領の仲介を拒否、10月、ウルグアイに進軍を開始した。ラプラタ水系の勢力均衡崩壊に繋がり自国の国益を損なう、とみるパラグアイが、同12月、ブラジル帝国に宣戦する。

パラグアイは人口で20倍、圧倒的な大国を相手にするわけだが、富国強兵策により優れた兵力と先進的兵器を有する、当時では軍事大国に育っていた。ところが翌18652月、ウルグアイがブラジルに降伏、コロラド党が政権を奪還し、パラグアイ戦争ではブラジル側に付くことになる。655月以降、パラグアイと、同盟を結んだブラジル、アルゼンチン及びウルグアイとの「三国同盟戦争」に発展した。緒戦はパラグアイが制した。66年になるとミトレを総司令官とする同盟軍が攻勢を強め、パラグアイ軍をアルゼンチン及びブラジル領内から撃退、今度はパラグアイ国内での戦争に移った。パラグアイ側の抵抗は激しく、アスンシオン陥落には691月までかかった。戦争自体の終結は翌703月のソラノ・ロペス戦死によって、である。それまで山岳地帯で抵抗戦を続けていた。

この戦争の特徴はパラグアイの人口が半減した、といわれるその悲惨さにある。5年以上に亘る戦争で、三国同盟側でも数万人の戦死者を出した。ブラジルとアルゼンチンは合わせて十数万平方キロにも上る新たな領土を得て、後者はほぼ現在の領域を画定、前者の領域は1903年のボリビアとの国境条約を経て画定される。

(3)第二次独立戦争18661月~同9月):ペルー

1863年8月、スペインのバスク人移民が、北部沿岸部の砂糖園で農園主との争議を起こした。これを重要視したスペインは、64年になると軍艦を派遣、同年4月、重要輸出産品のグァノ(鳥の糞。肥料)の産地、チンチャ諸島を占領した。ペルー側は、一旦賠償金支払いで解決を図り条約締結にまで漕ぎ着けた。しかし、この対応を弱腰と糾弾する勢力の反乱が起き、654月、M.I.プラド*3)将軍がクーデターで政権を取り、チリ、ボリビア、エクアドルとの「太平洋岸四国同盟」を締結した上で、661月、スペインに宣戦を布告、同年9月までに同盟軍艦隊によりスペイン艦隊は太平洋沖合から撤退した。

(4)太平洋戦争18794月~チリ対ペルー8310月、~チリ対ボリビア844月)
 1866年、ペルーの第二次独立戦争の翌年、ボリビアとチリは、南緯24度を国境とし、この南北1度ずつを地下資源の共同開発地域と定める太平洋岸地域の「国境条約」を締結した。翌67年、太平洋岸のボリビア領アントファガスタで、豊富な硝石(火薬や肥料の原料として国際需要が急増していた)資源が発見された。それまでチリ領北部地帯の硝石開発に携わっていたチリ資本がここにも進出した。7812月、ボリビアのカウディーリョ、ダサ*4)の政府が、チリ企業に対する硝石輸出増税を通告、翌792月、チリ海軍がアントファガスタに上陸した。上記増税がそれまでに締結された二国間協定に違反する、との主張で、ボリビア当局による資源税徴収の執行妨害を目的とする。これに対して、翌3月、ボリビアがチリに、4月チリがボリビアとM.I.プラド第二次政権下のペルー(当時ボリビアと相互防衛条約を結んでいた)に宣戦布告した。

チリは187910月頃までには制海権を確保、同年末、M.I.プラドが事実上の退陣、ダサは追放されている。806月頃からチリは地上戦も優位に進め、811月にはリマを陥落した。その後ペルー、ボリビア両国軍とも抵抗戦に入り、ペルーは8310月のアンコン講和条約、ボリビアは844月の休戦条約を夫々締結した。ペルーは、やはり硝石産地であるタラパカ地方を、ボリビアは太平洋の出口そのものを失い、内陸国となる(1904年の講和条約でアントファガスタを正式に割譲)。チリは現領域をほぼ画定、硝石で潤うようになる。だが、7年後の1891年、後述の「議会の乱」が起き、立法府の行政府に対する優越を決めたいわゆる「議会共和国」時代に入る。

 

人名表(紫字の人名は参照)

*1フロレスVenacio Flores1803-68):ウルグアイリベラ後のコロラド党
   リーダー。大統領(1854-5565-68

*2: ミトレBartolomé Mitre1821-1906):アルゼンチン。国家統合後の初
   代大統領(
1862-68)。ブエノスアイレス州で反ロサス運動。ウルキサ政権に
   も反対、国家統合を遅らせた。

*3M.I.プラドMariano Ignacio Prado1826-1901):ペルー。大統領
   (
1865-6876-79)。太平洋戦争中外国訪問に出たまま、終戦まで帰国せず

*4ダサHilarion Daza1840-94):ボリビア。大統領(1876-79)。カウ
   ディーリョで、太平洋戦争の責任を取らされ亡命。帰国時、暗殺される。


フアレスBenito Juárez1806-72)、マクシミリアンMaximiliano I1832-67)及びペドロ二世Pedro II1825-1891、在位1840-89)についてはラ米略史ラ米建国期ソラノ・ロペスFrancisco Solano López1827-70)はカウディーリョたちラプラタ諸国のカウディーリョたちを夫々参照願いたい。


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