二十世紀の国家間戦争 |
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十九世紀後半より、各国はドイツとフランスから軍事顧問団を招き、軍制の近代化に取り組んだ。或いは、米国が軍隊を派遣し内政をみる国が中米カリブ地域で幾つか出た。第一次世界大戦にはブラジルのみが連合側として参戦した。輸出牽引による発展を遂げた経済は、世界恐慌(大恐慌)で大きく収縮し、国情混乱の中で、今度は国軍の指導者、或いは若手将校とかがクーデターによって政治の表舞台に登場、強権政治を敷かれる国が現れる。 以上を念頭に、ここでは二十世紀におけるラ米の国家間戦争を取り上げる。 (1)チャコ戦争(1932年6月~35年6月):ボリビア対パラグアイ パラグアイ川からアンデス東麓山までのチャコ地方の内、ピルコマヨ川北部一帯の約26万平方㌔がボリビア領とパラグアイ領に分かれ、一応の国境線は二十世紀初頭、アルゼンチンの調停で確立していた。それでも両国間紛争は絶えず、1928年12月、ボリビア側の要塞をパラグアイ軍が襲撃する事件に発展する。米州諸国の調停で29年9月までに収束したが、31年7月、続く紛争を理由に、サラマンカ(*1)政権下のボリビアが、アヤラ(*2)第二次政権下のパラグアイと断交、続いて翌32年6月、宣戦を布告、侵攻に入った。 戦後、両国は政治不安の時代に入り、52年にはボリビア革命、54年にパラグアイのストロエスネル独裁、64年からのボリビア軍政に進む。 ペルーは、前述した1829年のポルテテ・イ・タルキ会戦を含め、エクアドルの分離独立以前より同国との境界線を巡った紛争を繰り返し、一応の国境線は時間を追って確立してきた。ただアマゾン地域の領有権については紛争が絶えず、1859-60年には武力衝突も起きた。エクアドルが内戦や対コロンビア侵攻、ペルーもスペイン軍艦来襲や太平洋戦争などで忙しく、この間旧宗主国スペインの国王仲介を要請するなど一定の動きはあったが、実質的に宙に浮いた状態が続き、実効支配国境線を取り決めるのに1936年までかかった。 1941年7月5日、取り決めたはずの国境線をエクアドル軍が侵害した、として、M.プラド(*3)第一次政権下のペルーが大軍をアロヨ政権下のエクアドル領内に派遣、交戦結果は事実上、ペルー側の勝利だった(第一次戦争)。西半球で軍隊を空輸した初めての戦争と言われる。42年1月、米国の第二次世界大戦参戦を受けた米州外相会議がリオデジャネイロで開催され、対枢軸諸国断交を盛った「リオ宣言」が採択された。ここで両国は米国、ブラジル、アルゼンチン及びチリの四ヵ国を「保証者」として「リオ議定書」と呼ばれる和平協定に調印した。紛争地域のペルー帰属を確認するものだった。 1960年9月、就任して間もないエクアドル大統領、ベラスコ・イバラが、リオ議定書はペルー軍展開の中で締結されたことを理由に、無効を宣言、またしても領有権問題が宙に浮いた状態に陥った。81年以降、エクアドル軍による議定書上の国境侵犯が何度か起こり、95年1月26日、ペルー軍駐屯地が襲撃されたことで第二次戦争に発展した。戦争自体は一月後の「モンテビデオ宣言」で終結したが、最終的決着には98年10月の和平協定調印まで掛かっている。独立以来紛争の絶えなかった両国の現領域画定には、エクアドル建国から168年を要した。 (3)ホンジュラス・エルサルバドル戦争(1969年7月14-18日) 1959年にキューバ革命が成立してから2年後、米国主導による「進歩のための同盟」が打ち出され、農地再分配を基本とする農地改革がラ米各国で進められていた。62年9月に制定されたホンジュラスの農地改革法は、公有農地の民間払い下げを実施するもので、対象はホンジュラス国民に限定された。当時在ホンジュラスのエルサルバドル人農民は10万人とも言われた。69年の同法施行で公共農地での職を失った彼らの大量帰国が始まる。 1969年6月のサッカーワールドカップ北中米予選で、サンサルバドルにおいて両国チームが対戦した機会にホンジュラス人観客が暴力を受けた。ホンジュラスから帰国するエルサルバドル人農民がこの報復を受ける。隣国国民間の敵対感情が増幅し、ついにサンチェス(*4)大佐の政権下のエルサルバドルが、アレヤーノ(別掲の「ラ米の軍政とゲリラ戦争」参照)軍政下のホンジュラスに軍事侵攻、数日間の交戦が行われている。そのため、サッカー戦争と呼ばれる。OASの調停で戦闘は4日間で終ったが、80年5月まで両国間外交関係を絶つ。最終的和平協定締結は同年10月である。民政移管を2年後に控えていた。 (4)マルビナス戦争(1982年4~6月):アルゼンチン マルビナス諸島とは、カウディーリョが割拠し、対外的にはアルゼンチン大統領はブエノスアイレス州知事が大統領を代行する時代の1832年、アルゼンチンの抗議に拘わらず、イギリスが植民化したフォークランド諸島のことだ。アルゼンチンの歴代政府は英国政府に対し返還を訴え続けたが、実効支配を理由にこれを無視してきた。1977年、英国政府はアルゼンチン軍侵攻の危険が差し迫っている、として軍艦を派遣していた。 1982年4月、人口1,800人、牧羊で支えられていた同地に、ガルティエリ(*5)軍政下、アルゼンチンが1万人もの大軍で侵攻、英国海軍の要塞を簡単に制圧してしまった。経済苦境に苛まれていた国民は、それまで抑圧的な軍政に苦しんでいたが、狂喜した。ラ米の他国民も熱狂的にこの軍事行動を支持した。レーガン政権下の米国が両国間調停に乗り出したが失敗、47年のリオ条約に反するが、対英ではなく対アルゼンチン制裁、即ち新規信用供与と武器援助の停止を表明する。これをみてイギリスは数千人規模の軍隊を派遣した。6月、アルゼンチンの現地守備隊が降伏し、事実上敗戦となる。両軍で合わせて1,000人近い戦死者を出した。ガルティエリは退陣する。 この敗戦から2年後、アルゼンチン軍政は終わった。ガルティエリは後年懲役刑を受けている。ただアルゼンチンはマルビナスの領有権は、今日もなお主張し続ける。 人名表: (*1)サラマンカ(Daniel
Salamanca、1863-35):ボリビア。大統領 アロヨ(Carlos Alberto Arroyo del Rio、1893-1969)とベラスコ・イバラ(José María Velasco Ibarra、1893-1979)は別掲ラ米のポピュリストたちのアヤ、ガイタン、ベラスコ・イバラを参照。
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