マニフェスト・デスティニー:メキシコ、パナマ、ニカラグア


 1818年以来、英米共同統治下の太平洋岸オレゴン地区(現オレゴン、ワシントン、アイダホ)に米人が移住を進めていた。18192月、米国とスペインが「アダムズ・オニス条約」を締結し、両国間の境界を確定した。フロリダは米国に譲渡され、テハス(英語名テキサス)がスペイン領の東限となった。米国の西部開拓の波はここにも及ぶ。
 1821
1月、スペイン(ヌエバイスパニア副王庁)はオースティン率いる米人開拓団300家族に対して入植許可を与えた。この年の8月、メキシコが事実上の独立を達成した。メキシコは米国との国境線をアダムズ・オニス条約に依拠する。18231月、米国政府はメキシコの独立を承認した。米人のテハス入植はこの間も、それ以後も進む。
 ラ米諸国が宗主国からの独立を勝ち取った後、建国期の混乱にあった最中、米国にはヨーロッパから移住者が押し寄せた。交通網はさらに整備され、蒸気船も航行するようになり、鉄道も敷設された。産業革命が進んだ。当然、それまでの未開地の開拓も進む。西部開拓は、多くの英雄を生んだ。上記のオースティンはその先駆者とも言える。

(1)メキシコ

メキシコは1826年、入植者制限令(カトリック教徒に限ること)を、1829年に奴隷解放令を、そして30年、入植禁止令まで出した。だがテハスは既に人口で米人が本来のメキシコ人を圧倒していた。183511月、米人入植者らが分離独立を宣言した。理由として、下記が指摘される。

  • 不安定な中央政府への幻滅
  • 当時のサンタアナ政権による地方自治体への締め付け
  • 入植者の資格制限(奴隷禁止やカトリック教徒要件など)

サンタアナ大統領自ら、独立運動制圧のため出動した。翌18362月の「アラモの戦い」では、僅かな手勢で戦い全滅した砦の英雄たちの姿が、今も「リメンバー・アラモ」と、米国人の感動を呼び起こす。同年4月の「サンハシントの戦い」で、事実上の独立を獲得、翌年にはもう、米国がこの「テキサス共和国」を承認した。スペインがメキシコ独立を承認した4ヶ月後のことだ。
 1840年代、未開地「フロンティア」を更に西へと拡大することが、米国に与えられた明白なる天命、即ち「マニフェスト・デスティニー(Manifesto Destiny)」、という理屈が、米人の間で広まっていた。米国は、1845年にこの共和国を「テキサス州」として併合し、465月に対メキシコ宣戦(「米墨戦争」48年)を発し、侵攻に踏み切る。翌月、イギリスとの協定でオレゴン地区の領有権を得て、太平洋への出口を確保していたが、米国は遥かに貪欲だった。当時、米国は人口3千万近く、世界的に見ても経済・軍事両面で堂々の大国だった。一方のメキシコは8百万ほどに過ぎず、建国の動乱期にあった。米国がここと戦争して敗退することは有り得なかった。

米墨戦争での勝利により、18482月の「グァダルーペ・イダルゴ条約」を以て、現ニューメキシコ、アリゾナ、ネヴァダ、ユタ及びカリフォルニアの5州を獲得した。戦争を率いたザカリ・テイラー将軍は大統領(在任1849-53)になった。ラ米の知識層には、「米墨戦争は世界史上最も不正義な戦争」、とする見方が一般的なようだ。ラ米の米国観にマイナスインパクトを与えたことは、間違いあるまい。メキシコ市のチャプルテペック公園の入り口に「英雄少年Ninos Heroesと名付けられた6人の少年兵の像が立っている。1847年の米軍による首都占領に激しく抵抗し戦死した少年たちだ。これを見て、嫌米観が募らぬメキシコ人は、皆無だろう。カリフォルニアから大規模金鉱が発見されたのは、グァダルーペ・イダルゴ条約締結直前の481月のことだ。

(2)パナマ

米墨戦争の真っ只中の184612月、米国はヌエバグラナダ(現コロンビア)と「ビドラック・マヤリノ(Bidlack-Mallarino)条約」を締結した。北端のパナマ州は米州大陸では大西洋と太平洋を結ぶ最も短い陸路を持つ。ボゴタからは交通の便が悪く、この両洋間地峡の通行の保護に十分な手当てができないので、米国にその役割を担って欲しい、という、コロンビア側の要望による。半年後には米人の地峡通行も自由化された。
 1850年、米企業家らがパナマ地峡鉄道(Panama Railway Companyを創設した。オレゴン地区への交通は有名なオレゴン街道をミズーリから3千`、幌馬車で半年近く掛けて辿る時代である。僅か77`のパナマ地峡に鉄道があれば、蒸気船との組合せでオレゴンに向うルートが、当時ではよほど効率的であり、以前から研究はされていた。ビドラク・マヤリノ条約締結は亘りに船だった。この時点ではカリフォルニア獲得を既定路線、としていたと見てよい。米墨戦争の結果、マニフェスト・デスティニーは完成した、と言えるが、551月のパナマ地峡鉄道の前面開通により、補強された。

(3)ニカラグア

パナマ地峡鉄道全面開通から4ヶ月経った18555月、米人ウォーカーWilliam Walkerが、ニカラグア自由主義派の要請で同国に入国し、米墨戦争従軍兵士から成る米人傭兵隊を率い、保守派との内戦を翌56年までに平定、且つ大統領を僭称する行為に及んだ。マニフェスト・デスティニーと無縁ではなかろう。中米五ヵ国による「国民戦争」の結果追放されて帰国した際には、英雄としてもてはやされた。その後も中米潜入を図り、最終的に挫折した。
 だがニカラグアにとって、ウォーカーが惹き起こした戦争の後遺症の凄まじさは、1893年のセラヤ登場まで、頑なな保守主義政権を続けたことで頷ける。1870年代早々、中米のみならずラ米の殆どで自由主義(軍と教会の特権、並びに経済活動の既得権排除)が一般化し、結果的に経済発展を享受していた。

(以上、別掲「ラ米の戦争と軍部」黎明期の戦争参照)


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