マニフェスト・デスティニー:メキシコ、パナマ、ニカラグア |
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(1)メキシコ メキシコは1826年、入植者制限令(カトリック教徒に限ること)を、1829年に奴隷解放令を、そして30年、入植禁止令まで出した。だがテハスは既に人口で米人が本来のメキシコ人を圧倒していた。1835年11月、米人入植者らが分離独立を宣言した。理由として、下記が指摘される。
サンタアナ大統領自ら、独立運動制圧のため出動した。翌1836年2月の「アラモの戦い」では、僅かな手勢で戦い全滅した砦の英雄たちの姿が、今も「リメンバー・アラモ」と、米国人の感動を呼び起こす。同年4月の「サンハシントの戦い」で、事実上の独立を獲得、翌年にはもう、米国がこの「テキサス共和国」を承認した。スペインがメキシコ独立を承認した4ヶ月後のことだ。 米墨戦争での勝利により、1848年2月の「グァダルーペ・イダルゴ条約」を以て、現ニューメキシコ、アリゾナ、ネヴァダ、ユタ及びカリフォルニアの5州を獲得した。戦争を率いたザカリ・テイラー将軍は大統領(在任1849-53)になった。ラ米の知識層には、「米墨戦争は世界史上最も不正義な戦争」、とする見方が一般的なようだ。ラ米の米国観にマイナスインパクトを与えたことは、間違いあるまい。メキシコ市のチャプルテペック公園の入り口に「英雄少年Ninos Heroes」と名付けられた6人の少年兵の像が立っている。1847年の米軍による首都占領に激しく抵抗し戦死した少年たちだ。これを見て、嫌米観が募らぬメキシコ人は、皆無だろう。カリフォルニアから大規模金鉱が発見されたのは、グァダルーペ・イダルゴ条約締結直前の48年1月のことだ。 (2)パナマ 米墨戦争の真っ只中の1846年12月、米国はヌエバグラナダ(現コロンビア)と「ビドラック・マヤリノ(Bidlack-Mallarino)条約」を締結した。北端のパナマ州は米州大陸では大西洋と太平洋を結ぶ最も短い陸路を持つ。ボゴタからは交通の便が悪く、この両洋間地峡の通行の保護に十分な手当てができないので、米国にその役割を担って欲しい、という、コロンビア側の要望による。半年後には米人の地峡通行も自由化された。 (3)ニカラグア パナマ地峡鉄道全面開通から4ヶ月経った1855年5月、米人ウォーカー(William Walker)が、ニカラグア自由主義派の要請で同国に入国し、米墨戦争従軍兵士から成る米人傭兵隊を率い、保守派との内戦を翌56年までに平定、且つ大統領を僭称する行為に及んだ。マニフェスト・デスティニーと無縁ではなかろう。中米五ヵ国による「国民戦争」の結果追放されて帰国した際には、英雄としてもてはやされた。その後も中米潜入を図り、最終的に挫折した。 (以上、別掲「ラ米の戦争と軍部」の黎明期の戦争参照)
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