ラ米の内戦

 
 内戦とは、国政を巡る武装勢力間の戦争、と定義づければ、独立革命戦争は正しく内戦だった。独立戦争に従軍した兵士の多くが復員後も、国軍に入れずとも大土地所有者やカウディーリョの私兵になった。政権の正統性を理由にカウディーリョ同士が武力で衝突を繰り返すケースは頻発している。保守派、自由主義派間、或いは中央集権か地方分権かを巡る路線対立が重なり、内戦に発展した例も多い。ここでは、このような、いわば建国期に頻発した内戦は割愛する。
 十九世紀後半になると国軍の近代化が進んだ。統帥権は共和国の場合、大統領に付与される。従って内戦はこの場合、国軍と反政府軍との間で展開される。反政府軍とは、反政府勢力が作る武力組織で、しばしば政府軍の反主流派も合流した。ここではその中のチリとコロンビアの内戦を採り上げる。二十世紀にも内戦は多発した。ここでは日本に次いで対外戦争放棄の元となったコスタリカ、及びキューバ革命の域内波及を止めるべく米国が介入したドミニカ共和国の内戦を採り上げる。

 反政府軍が政権を転覆すれば、革命、と言える。その内の社会革命がメキシコ、ボリビア、キューバ及びニカラグアの各革命だが、これらは
ラ米の革命に別掲する。またキューバ革命後、ラ米に誕生したゲリラ勢力による内戦は別掲の「軍政とゲリラ戦争」ゲリラ戦争で述べる。

(1)議会の乱189118月):チリ

チリでは1871年以降、それまで40年間続いていた大統領の連続再選が無くなった。86年までの15年間、3人の大統領全てが5年間の任期を全うし、前述通り、太平洋戦争にも勝ち、硝石産地が拡大した。反乱を繰り返してきた先住民を最終的に制圧し、実効支配に組み入れられた南部が新たな農業地帯に発展し、ここにドイツ系入植者が来た。これで、経済基盤も強化できた。1885年、チリ政府はドイツの軍事顧問を招聘、軍制近代化も進む。

18869に大統領に就任したバルマセダ*1政権下で、硝石産業への行政介入や、議会承認を必要とする内閣人事を含む大統領権限の強化を図る動きが出て、議会側の反発が強まっていた。9012月、彼の任期最後の予算案を議会が否決した。これに対し、彼は前年度承認の予算を執行することで強行突破に出た。議会保守派は、翌911月、J.モント*2)海軍司令官を護憲評議会議長に立て、反政府蜂起に至る。兵員数で海軍を大きく上回る陸軍は、政権側に付いた。中央政府から見れば海軍対陸軍の内戦ではあるが、議会の主力が起こした政権そのものへの内乱、ということで、「議会の乱」と呼ばれる。

上院副議長と下院議長が主要な役割を果たす護憲評議会は、イキケを拠点に、太平洋戦争で得た旧ペルー、ボリビア領土と同地の陸軍部隊を手中にし、硝石産業に投資するイギリス資本の協力も得て、勢力を拡大し、同年8月までに戦勝を決めた。バルマセダはアルゼンチン公使館に亡命、任期満了日に、そこで自殺した。乱による犠牲者は数千人、とされる。これより大統領の権限を縮小し、行政に対する議会の優位を確立した、いわゆる「議会共和制」と呼ばれる時代に入る。本来の三権分立に戻るには、249月の若手将校によるクーデターを待つことになる。

(2)千日戦争189910月~190211月):コロンビア

1830年にベネズエラとエクアドルが分離したグランコロンビアは、ヌエバグラナダ共和国として改めて建国された。その後建国の英雄、サンタンデルの流れを引く勢力と、独立革命の英雄でベネズエラ人のボリーバルの流れを引く勢力の抗争が続いた。1849年、前者が自由党を、後者が保守党を結成した。前者の政権時代、国名がグラナダ連合(1857年)、コロンビア合衆国(63年)と変り、地方分権の強化が図られた。また教会特権の廃止も進んだ。

1880年に発足したヌニェス*3政権以降が保守党政権時代とされる。中央集権化と教会との和解が進み、86年の憲法がその集大成となり、国名も現在の国名、コロンビア共和国になった。下野した自由党の反発は強く、1893年に第一回目の、95年に第二回目の武力蜂起に至る。いずれも短期で制圧されたが、99年の第三回目蜂起は3年にも及ぶ内戦となった。10万人もの犠牲者を出した、といわれる。これがラ米史上有名な「千日戦争」である。結果的に保守党政権側の勝利に終った。

以後もさらに30年間(計50年間)の保守党時代をみるが、ラ米史上忘れられないのは、パナマという新たな国家誕生である。内戦終結1年後だったが、最北端の地峡州パナマの独立派が、米国の後押しで独立宣言に至った

(3)コスタリカ内戦194834月)

1871年憲法」制定後のコスタリカは、ティノコ*4)将軍独裁期(19171月~195月)を除き、概ね民主的な国政が営まれていた。40年、カルデロン*5)が大統領に就任した。彼はポピュリスト傾向を持ち、労働権の拡大や社会保障制度の充実が図られ、高度福祉国家への道筋を作ったことで知られる。一方で、第二次世界大戦では米国に先駆け対独断交に及び、また、ドイツ系移民の資産接収を断行した。
 19482月の総選挙で、カルデロン派が議会選では勝ったが、大統領選には敗北した。招集された議会が、不正選挙を理由に大統領選の無効を宣言する。翌3月、反カルデロンの急先鋒、フィゲレスが「国民解放軍」の名の下で、武装蜂起に及び、2千人とされる犠牲者を出した1ヵ月半の、この「コスタリカ内戦」を制した。

フィゲレスを首班とする「革命評議会」が「1871年憲法」を破棄、同年12月、旧与党を排除して制憲議会選挙を行った。この議会が、翌492月、常備軍廃止を明記した平和憲法を制定する。またこの制憲議会が48年大統領選の有効性を認め、一方で議会選をやり直した。

(4)ドミニカ内戦19654月~9月)

19047月、ドミニカ共和国が対外債務不履行を起こし、翌057月、米国と行政協定を締結した。米国が融資斡旋と税官吏派遣を行う、というものだ。07年には「関税条約」締結に至る。米国から派遣される税関総監の業務遂行に支障が出れば、米国が軍事介入する、との取り決めだが、166月、8年間に亘る米軍統治も行われた。共和国軍は解散し、米軍の指導で国家警備隊が創設され、後年その参謀長がクーデターで長期独裁に入り、当人が狙撃され死亡したことを含め、ニカラグアと似ている。トルヒーヨ独裁下の409月、米国による関税管理のための条約が終了した。608月、米州機構(OAS)による制裁決議は、翌615月のトルヒーヨ暗殺を経て、さらに翌621月に解除される。この半年後、OASは、今度は対キューバ制裁を決議した。

196212月、ボッシュ*6)が大統領選に勝利したものの、翌639月、軍部により追放された。軍部は「革命評議会」を樹立する。654月、ボッシュ復帰を訴えるドミニカ革命党(PRD。ボッシュがトルヒーヨ時代に創設)のデモが組織され、これが軍内護憲派を巻き込み、内戦に発展した。護憲派が首都を押さえ臨時政府を樹立、革命評議会は地方で作った再建政府と対峙する。米国が、米人保護を理由に最大で2万人以上の海兵隊が送り込んで首都を制圧した。同年6月、これは米軍を大半とするOAS軍(総司令官は軍政化して間もないブラジル将官)に衣替えした。結果的にその調停によって当事者間和平が成立し、内戦は終結した。

 

人名表

*1バルマセダJose Manuel Balmaseda1840-91):チリ
   大統領(
1886-91)。インフラ整備や教育近代化を推進
*2J.モントJorge Montt Álvarez 1847-1922):
チリ。海軍司令官。
   護憲評議会議長として議会軍を率い、その後大統領(
1891-96
*3ヌニェスRafael Núñez182594):
コロンビア。大統領(1880-82 
    84-92
)。1886年憲法制定時の大統領。十九世紀は唯一、連続再選
*4ティノコJosé Tinoco Granados 1870-1931)
コスタリカ。自ら国防相
   を務める政権に対するクーデターで独裁権(
1917-19)を得た将軍
*5カルデロンRafael Calderón Guardia1900-70):
コスタリカ。大統領
  (
1940-44)。政界に多大な影響力を残す。息も大統領を務める(1990-94)。
*6ボッシュJuan Emilio Bosch1909-2001):
ドミニカ共和国
   1939
年、亡命先で反トルヒーヨの同志とドミニカ革命党(
PRD)結成。民主
   化後の73年、離党しドミニカ解放党(
PLD、現政権党)創設

フィゲレスJosé Figueres Ferrer1906-90
別掲「ラ米略史」ポプリスタたちの時代を、トルヒーヨRafael Leonidas Trujillo1891-1961別掲「軍政とゲリラ戦争」の軍政時代前夜参照


ラ米の軍事力  独立黎明期の戦争  ラ米確立期の戦争  二十世紀の国家間戦争 
ラ米の内戦       
ホーム     
ラ米の政権地図  ラ米略史  コンキスタドル(征服者)たち  ラ米の人種的多様性  ラ米の独立革命 
カウディーリョたち  ラ米のポピュリスト  ラ米の革命  ラ米の戦争と軍部  軍政時代とゲリラ戦争 
ラ米と米国   ラ米の地域統合