ラ米の内戦 |
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(1)議会の乱(1891年1~8月):チリ チリでは1871年以降、それまで40年間続いていた大統領の連続再選が無くなった。86年までの15年間、3人の大統領全てが5年間の任期を全うし、前述通り、太平洋戦争にも勝ち、硝石産地が拡大した。反乱を繰り返してきた先住民を最終的に制圧し、実効支配に組み入れられた南部が新たな農業地帯に発展し、ここにドイツ系入植者が来た。これで、経済基盤も強化できた。1885年、チリ政府はドイツの軍事顧問を招聘、軍制近代化も進む。 1886年9月に大統領に就任したバルマセダ(*1)政権下で、硝石産業への行政介入や、議会承認を必要とする内閣人事を含む大統領権限の強化を図る動きが出て、議会側の反発が強まっていた。90年12月、彼の任期最後の予算案を議会が否決した。これに対し、彼は前年度承認の予算を執行することで強行突破に出た。議会保守派は、翌91年1月、J.モント(*2)海軍司令官を護憲評議会議長に立て、反政府蜂起に至る。兵員数で海軍を大きく上回る陸軍は、政権側に付いた。中央政府から見れば海軍対陸軍の内戦ではあるが、議会の主力が起こした政権そのものへの内乱、ということで、「議会の乱」と呼ばれる。 上院副議長と下院議長が主要な役割を果たす護憲評議会は、イキケを拠点に、太平洋戦争で得た旧ペルー、ボリビア領土と同地の陸軍部隊を手中にし、硝石産業に投資するイギリス資本の協力も得て、勢力を拡大し、同年8月までに戦勝を決めた。バルマセダはアルゼンチン公使館に亡命、任期満了日に、そこで自殺した。乱による犠牲者は数千人、とされる。これより大統領の権限を縮小し、行政に対する議会の優位を確立した、いわゆる「議会共和制」と呼ばれる時代に入る。本来の三権分立に戻るには、24年9月の若手将校によるクーデターを待つことになる。 (2)千日戦争(1899年10月~1902年11月):コロンビア 1830年にベネズエラとエクアドルが分離したグランコロンビアは、ヌエバグラナダ共和国として改めて建国された。その後建国の英雄、サンタンデルの流れを引く勢力と、独立革命の英雄でベネズエラ人のボリーバルの流れを引く勢力の抗争が続いた。1849年、前者が自由党を、後者が保守党を結成した。前者の政権時代、国名がグラナダ連合(1857年)、コロンビア合衆国(63年)と変り、地方分権の強化が図られた。また教会特権の廃止も進んだ。 1880年に発足したヌニェス(*3)政権以降が保守党政権時代とされる。中央集権化と教会との和解が進み、86年の憲法がその集大成となり、国名も現在の国名、コロンビア共和国になった。下野した自由党の反発は強く、1893年に第一回目の、95年に第二回目の武力蜂起に至る。いずれも短期で制圧されたが、99年の第三回目蜂起は3年にも及ぶ内戦となった。10万人もの犠牲者を出した、といわれる。これがラ米史上有名な「千日戦争」である。結果的に保守党政権側の勝利に終った。 以後もさらに30年間(計50年間)の保守党時代をみるが、ラ米史上忘れられないのは、パナマという新たな国家誕生である。内戦終結1年後だったが、最北端の地峡州パナマの独立派が、米国の後押しで独立宣言に至った。 (3)コスタリカ内戦(1948年3~4月) 「1871年憲法」制定後のコスタリカは、ティノコ(*4)将軍独裁期(1917年1月~19年5月)を除き、概ね民主的な国政が営まれていた。40年、カルデロン(*5)が大統領に就任した。彼はポピュリスト傾向を持ち、労働権の拡大や社会保障制度の充実が図られ、高度福祉国家への道筋を作ったことで知られる。一方で、第二次世界大戦では米国に先駆け対独断交に及び、また、ドイツ系移民の資産接収を断行した。 フィゲレスを首班とする「革命評議会」が「1871年憲法」を破棄、同年12月、旧与党を排除して制憲議会選挙を行った。この議会が、翌49年2月、常備軍廃止を明記した平和憲法を制定する。またこの制憲議会が48年大統領選の有効性を認め、一方で議会選をやり直した。 (4)ドミニカ内戦(1965年4月~9月) 1904年7月、ドミニカ共和国が対外債務不履行を起こし、翌05年7月、米国と行政協定を締結した。米国が融資斡旋と税官吏派遣を行う、というものだ。07年には「関税条約」締結に至る。米国から派遣される税関総監の業務遂行に支障が出れば、米国が軍事介入する、との取り決めだが、16年6月、8年間に亘る米軍統治も行われた。共和国軍は解散し、米軍の指導で国家警備隊が創設され、後年その参謀長がクーデターで長期独裁に入り、当人が狙撃され死亡したことを含め、ニカラグアと似ている。トルヒーヨ独裁下の40年9月、米国による関税管理のための条約が終了した。60年8月、米州機構(OAS)による制裁決議は、翌61年5月のトルヒーヨ暗殺を経て、さらに翌62年1月に解除される。この半年後、OASは、今度は対キューバ制裁を決議した。 1962年12月、ボッシュ(*6)が大統領選に勝利したものの、翌63年9月、軍部により追放された。軍部は「革命評議会」を樹立する。65年4月、ボッシュ復帰を訴えるドミニカ革命党(PRD。ボッシュがトルヒーヨ時代に創設)のデモが組織され、これが軍内護憲派を巻き込み、内戦に発展した。護憲派が首都を押さえ臨時政府を樹立、革命評議会は地方で作った再建政府と対峙する。米国が、米人保護を理由に最大で2万人以上の海兵隊が送り込んで首都を制圧した。同年6月、これは米軍を大半とするOAS軍(総司令官は軍政化して間もないブラジル将官)に衣替えした。結果的にその調停によって当事者間和平が成立し、内戦は終結した。 (*1)バルマセダ(Jose Manuel
Balmaseda、1840-91):チリ。
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