中米カリブと「棍棒政策」

 
 中米でウォーカーが処刑された翌年の18614月、米国は南北戦争に入った。同時にドミニカ共和国はスペイン植民地に逆戻りし、メキシコはフランス軍が進駐してマクシミリアン帝政を押し付けられる。南北戦争が18654月に終結すると、ほぼ同時に前者は再独立し、2年後、後者の帝政は崩壊した。

それからさらに4年経った1871年、米企業家メイグス(Henry Meiggs)がコスタリカで、首都からカリブ海港湾都市リモンまでの鉄道建設を請け負った。工事自体は彼の死後は甥に当たるケイス(Keith)兄弟が引き継いだ。難工事で、完成したのは90年のことだ。この間、コスタリカ政府の支払不履行が起き、彼らは代償として鉄道沿線の広大な土地を得た。これがバナナ農園に変り、1899年、米の果実会社と共同でユナイティッドフルーツ(UFCOを創設する。二十世初頭には、UFCOはバナナの対米輸出を主事業とし鉄道、港湾、海運及び通信まで含む複合企業として、中米諸国に展開する。

UFCO誕生とほぼ同じタイミングで、米国はいわゆる「棍棒政策Gran garroteBig stick diplomacy)」を展開するようになる。嫌な呼び方だが、共和党のセオドア・ルーズベルト大統領(在任1901-09)が推し進めた対ラ米強硬策を言う。この前提が、モンロー主義のルーズベルト系論Roosevelt Corollary to the Monroe Doctrine)」とされる。西半球(米州)の後進地域の問題に対し、米国の介入権を唱えたものだ。彼が公式にこの系論を表明したのは1904年12月のことだが、棍棒政策自体は、しかし既に実行に移されていた。彼の退任後も、ウィルソン(民主党)、ハーディング(共和党)、クーリッジ(共和党)により継続された。

(1)ルーズベルト及びタフト(いずれも共和党)政権期(1901-13

大統領就任前の18984月、第二次独立革命戦争(18952月〜9810月)中のキューバで起きたメーン号事件(ハバナ寄航中に爆沈)で、米西戦争に突入した。この時ルーズベルトが義勇連隊、「ラフ・ライダーズ」を組織し、自らキューバに参戦、スペイン軍撃破の手柄を立てた。これがマスコミに大々的に取り上げられたことから、米国内で英雄になった。1900年、マッキンレイ大統領(共和党)により副大統領に抜擢され、翌年9月の大統領暗殺を受け昇格して大統領になっている。就任時43歳、歴代米国大統領の中でも非常に若い。

  • 19015月、就任前だが、キューバ憲法に「プラット修正条項」を入れさせ、憲法上で保護国化。025月、初代エストラダ大統領(在任1902-06)誕生と共に、米軍によるキューバ占領統治は終了した。だが069月、内戦に介入し、再度占領統治を行った(〜091月)。
  • 190212月、英独伊三ヵ国がベネズエラの主要3港湾を封鎖した際に、ルーズベルトがこれを非難、最終的に封鎖を解除させ国際調停に持ち込ませた。
  • 19032月、米・キューバ条約を締結し、グァンタナモ軍事基地の永久租借権獲得した。二十一世紀の今日、半世紀に及ぶ対キューバ国交断絶にも拘わらず、同国領土内の同基地は米軍が押さえた状態だ。
  • 190311月、パナマのコロンビアからの独立を軍艦派遣により支援する。ほどなく「ヘイ・ブナウバリリャ協定」締結で、運河地帯の永久租借権と運河権益獲得(パナマ全権代表のブナウバリリャはフランス人運河技師)、翌年には運河建設が開始されている。
  • 19072月、ドミニカ共和国と関税管理条約を締結する。国庫の財源を成す関税を米国が管理、保護国状態におくもの
  • 190711月、ニカラグア、ホンジュラスなどで隣国を巻き込んだ内戦が頻発していた中米諸国の代表をワシントンに招き、域内和平条約締結を斡旋する。紛争調停とは言え、影響力を扶植することに繋がった。
  • 191111月、ニカラグアと関税管理条約を締結する。翌128月、同国の内乱平定のため、米軍が首都に進駐、実質上の米軍統治に入る(〜258月)

パナマ独立で影響を受けたコロンビアを除く南米9ヵ国は「棍棒政策」と無縁だったと言える。ラ米全体からすれば、対米警戒感が強まっても、外国勢力としての存在感はイギリスなどのヨーロッパ勢の方が高く、経済はイギリス、文化はフランス、軍事はドイツの影響が強かった。

(2)ウィルソン(民主党)政権期(1913-21

 1914年段階で、ラ米の海外投資引受額の半分はイギリスであり、確かに米国は第二位につけてはいたものの、シェアは15%程度にとどまり、しかもメキシコ、中米カリブ地域に集中、南米への投資額はラ米全体への総投資額の一割程度に過ぎない。フランスはメキシコ占領の悪印象にも拘わらず、ラ米知識人の憧憬の的だったと言われる。
 

 19147月に、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。この年の大戦開始の前後、米国は以下のような動きをした。

  • 19144月、米国はコロンビアに対し、パナマ独立承認の引き換えに賠償金25百万jを支払う、という「トンプソン・ウルティア条約」締結。批准は21年まで延びる。
  • 19144月、メキシコ革命の最中にベラクルス占拠(〜同11月)
  • 19145月、米軍がドミニカ共和国内戦に介入し、これを平定
  • 19148月、パナマ運河開通。運河を挟んだ東西16キロを米国の治外法権下に置き、何時でも海兵隊が派遣できる体制を構築
  • 191611月、ドミニカ共和国で米軍統治開始(〜247月)

米国が対独宣戦を布告し第一次世界大戦に参戦したのは、17年4月である。メキシコで革命の集大成ともいえる1917年憲法が公布されたのはその翌月だ。ドイツ軍制を導入していたブラジルも同年10月、対独宣戦を行いラ米として唯一派兵までした。
 翌1918年11月、ドイツが休戦協定に調印したことで、事実上大戦は終結した。国内が戦場になることもなかった米国が、以後急速な経済発展を遂げる。

 他国に類を見ない消費文化(自動車、電機など)が急激に高まった米国の経済繁栄はラ米全体に経済的影響を深めた。食料、金属、エネルギー資源の市場として、投資元として、米国の存在感は広がった。メキシコや中米・カリブ地域のみならず、南米、特にイギリスの影響が強い南米南部にも浸透し始めた。

(3)ハーディング、クーリッジ政権(いずれも共和党)期(1921-29

 米国の中米・カリブ地域に対する棍棒政策は続いていた。19232月、再びワシントンに中米諸国を召集し、第二回目の中米平和友好条約を締結させ、存在感を高めた。また267月には米国がパナマと「アルファロ・ケロッグ協定」を締結、米国が交戦状態になった場合の防衛範囲をパナマにまで広げることを認めさせた。ニカラグアの駐留軍は258月には撤収したものの、271月に最進駐している(〜33年)


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