中米カリブと「棍棒政策」 |
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それからさらに4年経った1871年、米企業家メイグス(Henry
Meiggs)がコスタリカで、首都からカリブ海港湾都市リモンまでの鉄道建設を請け負った。工事自体は彼の死後は甥に当たるケイス(Keith)兄弟が引き継いだ。難工事で、完成したのは90年のことだ。この間、コスタリカ政府の支払不履行が起き、彼らは代償として鉄道沿線の広大な土地を得た。これがバナナ農園に変り、1899年、米の果実会社と共同でユナイティッドフルーツ(UFCO)を創設する。二十世初頭には、UFCOはバナナの対米輸出を主事業とし鉄道、港湾、海運及び通信まで含む複合企業として、中米諸国に展開する。 UFCO誕生とほぼ同じタイミングで、米国はいわゆる「棍棒政策(Gran garrote、Big stick diplomacy)」を展開するようになる。嫌な呼び方だが、共和党のセオドア・ルーズベルト大統領(在任1901-09)が推し進めた対ラ米強硬策を言う。この前提が、「モンロー主義のルーズベルト系論(Roosevelt Corollary to the Monroe Doctrine)」とされる。西半球(米州)の後進地域の問題に対し、米国の介入権を唱えたものだ。彼が公式にこの系論を表明したのは1904年12月のことだが、棍棒政策自体は、しかし既に実行に移されていた。彼の退任後も、ウィルソン(民主党)、ハーディング(共和党)、クーリッジ(共和党)により継続された。 (1)ルーズベルト及びタフト(いずれも共和党)政権期(1901-13) 大統領就任前の1898年4月、第二次独立革命戦争(1895年2月〜98年10月)中のキューバで起きたメーン号事件(ハバナ寄航中に爆沈)で、米西戦争に突入した。この時ルーズベルトが義勇連隊、「ラフ・ライダーズ」を組織し、自らキューバに参戦、スペイン軍撃破の手柄を立てた。これがマスコミに大々的に取り上げられたことから、米国内で英雄になった。1900年、マッキンレイ大統領(共和党)により副大統領に抜擢され、翌年9月の大統領暗殺を受け昇格して大統領になっている。就任時43歳、歴代米国大統領の中でも非常に若い。
パナマ独立で影響を受けたコロンビアを除く南米9ヵ国は「棍棒政策」と無縁だったと言える。ラ米全体からすれば、対米警戒感が強まっても、外国勢力としての存在感はイギリスなどのヨーロッパ勢の方が高く、経済はイギリス、文化はフランス、軍事はドイツの影響が強かった。 (2)ウィルソン(民主党)政権期(1913-21) 1914年段階で、ラ米の海外投資引受額の半分はイギリスであり、確かに米国は第二位につけてはいたものの、シェアは15%程度にとどまり、しかもメキシコ、中米カリブ地域に集中、南米への投資額はラ米全体への総投資額の一割程度に過ぎない。フランスはメキシコ占領の悪印象にも拘わらず、ラ米知識人の憧憬の的だったと言われる。
米国が対独宣戦を布告し第一次世界大戦に参戦したのは、17年4月である。メキシコで革命の集大成ともいえる1917年憲法が公布されたのはその翌月だ。ドイツ軍制を導入していたブラジルも同年10月、対独宣戦を行いラ米として唯一派兵までした。 (3)ハーディング、クーリッジ政権(いずれも共和党)期(1921-29) 米国の中米・カリブ地域に対する棍棒政策は続いていた。1923年2月、再びワシントンに中米諸国を召集し、第二回目の中米平和友好条約を締結させ、存在感を高めた。また26年7月には米国がパナマと「アルファロ・ケロッグ協定」を締結、米国が交戦状態になった場合の防衛範囲をパナマにまで広げることを認めさせた。ニカラグアの駐留軍は25年8月には撤収したものの、27年1月に最進駐している(〜33年)
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