1959年に成立したキューバ革命は、独裁政権を倒した、と言う意味で、当初米国も好意的に受け止めた。だが、革命政府が進めた農地改革の対象が米国企業の砂糖プランテーションに拡大するのを見て、対キューバ政策を急転換させる。
制裁は報復を呼び、アイゼンハワー共和党政権はキューバに対し、1960年10月には禁輸、61年1月には国交断絶、と進み、彼を引き継いだ民主党のケネディもこれを踏襲した。だが、キューバ革命の背景にラ米の貧困がある、各国の社会的近代化と産業の発展で国民所得の嵩上げが必要、と考え、その是正を米国も共に図っていく、としてラ米諸国に呼び掛けた点が前政権と異なる。「進歩のための同盟(Alliance for Progress)」と呼ばれる。
(1)キューバへの対応(別掲「ラ米の革命」のキューバ革命参照)
1961年4月のピッグズ湾事件は、革命を嫌う亡命キューバ人によって惹き起こされたもので、確かに米軍が直接侵攻したものではない。だが彼らの軍事訓練と、その侵攻作戦への戦闘機貸与及び武器供与は米国のCIAが担ったことは、余りにも有名な史実だ。訓練場所を提供したことに対し2009年2月、グァテマラのコロム大統領がキューバに対し正式に謝罪している。キューバ革命は共産主義革命ではないが、事件直後、カストロが社会主義革命、と宣言した。事件で撃墜した米軍機は、「対米勝利」の格好の材料となった。前後して、ラ米各地でキューバ革命に鼓舞された左翼ゲリラが活発化した。
1962年1月、米国のイニシアティヴで米州機構(OAS)がキューバを追放する。同年10月に全世界を核戦争の恐怖に陥れた「キューバ・ミサイル危機」は、この米州内孤立化の流れで理解すべきだろう。
(2)進歩のための同盟(以下、「同盟」)
ケネディが1961年3月に提唱した「同盟」には、産業基盤整備に加え、農民への土地の再分配(つまり、米国のグァテマラのアルベンス追放や対キューバ断交の原因となった農地改革)が堂々と打ち出された。この点は皮肉だが、重要なのは各国の経済発展に国家の役割の重要性が、しかも米国が具体的な資金支援を行う形で打ち出されたことだろう。手当てすべき必要資金は、その当時の貨幣価値で、10年間で1,000億j、と見積もった。米国は200億jを引き受ける、と言明する。この「同盟」の受益者としてよく引き合いに出されるのは、中米よりも下記のように南米アンデス諸国の政権が多いようだ。
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国 |
政権 |
期間 |
備考 |
@ |
コロンビア |
リェラス・カマルゴ |
1958-62 |
進歩のための同盟の「ショーケース」とまでいわれる。 |
リェラス・レストレポ |
1966-70 |
A |
ベネズエラ |
ベタンクール |
1959-64 |
64年7月、対キューバ全面禁輸・断交を決議するOAS会議を主宰 |
B |
ボリビア |
パス・エステンソロ第二次 |
1961-64 |
人口一人頭で最大の受益国といわれる。 |
C |
チリ |
フレイ |
1964-70 |
64年選挙で右派が中道の彼を支持。FRAPのアジェンデ(40%近い得票)政権阻止が目的 |
D |
ペルー |
ベラウンデ・テリー |
1963-68 |
先住民の不法占拠地が対象 |
(3)「同盟」の変質
1963年11月、ケネディが暗殺された。直接の関係は無いが、彼を引き継いだジョンソン政権(民主党。63-69)は、ベトナム戦争を拡大させたことで知られる。またラ米が軍政時代に入っていったのは、彼の政権期と重なる。ラ米を民主主義ブロックとすることで共産主義の砦に仕上げるという、トルーマン政権以来の米国の基本構想から外れる動きだ(別掲「軍政時代とゲリラ戦争」のラ米の軍政時代参照)。同時に、「同盟」は次第に変質し、米国による対ゲリラ戦(Counter-insurgency)軍事協力が増強された。米軍のプロによる軍事訓練(実戦部隊派遣も含む)と、各国の軍及び警察治安部隊に対する武器供与を行うもので、これが各国の軍事力強化にも繋がった、とされる。
ジョンソン政権は、1965年4月、「ドミニカ内戦」(別掲「ラ米の戦争と軍部」のラ米の内戦参照)に介入する形で、ドミニカ共和国に海兵隊を上陸させた(5月央までに3万人、といわれる)。33年の善隣政策言明以来、一度も無かった米国の当該ラ米国への軍事進攻である。後日、OAS外相会議での決議により、前年軍政に入ったばかりのブラジルから総司令官を出し、OAS平和維持軍が展開し、9月までに内戦は終結した。だがOAS軍の主体は米軍だったし、ラ米全体にはドミニカに対する米国による軍事介入、というイメージが強い。
1967年10月、ボリビアの軍政によって、同国でゲリラ活動を進めていたゲバラが処刑された。このゲリラ活動殲滅を目的に米軍特殊部隊が派遣されたことはよく知られている。翌68年に世界中で学生や労組を中心とした反政府行動が激化した遠因の一つとして記憶したい。この年、ペルーで左派軍政、パナマで反米的民族主義軍政が誕生する。ボリビア軍政までが一時的な左傾化を見た。
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