東西緊張緩和の時代 |
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(1)ニクソン、フォード政権(共和党、1969-74/1974-77) 1970年のチリ大統領選で、よく言われるように、米国CIAがアジェンデ当選阻止に暗躍したとすれば、これは失敗し、同年11月に発足したアジェンデ社会主義政権に対する敵対行動も無かった。ただ、米輸銀が米系産銅会社国有化に対抗して融資を停止、また米国政府もIDB及び世銀に融資を控えるよう圧力を掛けた。それでも、73年9月の軍事クーデターを呼んだ経済混乱と社会不安の一因にはなった(別掲「ラ米の革命」のペルーとチリの「革命」参照)。 その中で、チリは3千人以上、アルゼンチンは3万人以上といわれる犠牲者を出し、国際非難の的となっていた。人権侵害による国際非難は、ウルグアイやブラジル、中米のグァテマラやエルサルバドルも同様だ。迫害を受けたのが主として左派系の反政府勢力の人たちだったのは、緊張緩和の流れにある国際情勢から逆行していた。米国は、確かに人権問題で懸念表明はした。それでもラ米に対する米国の歴史的な影響力は、軍政については何ら行使されなかった。 (2)カーター政権(民主党、1977-81) 人権外交で知られるカーター大統領の政権下、エクアドル、ホンジュラス、ペルーが民政移管に成功していたし、ボリビアも紆余曲折こそあれ、動き出した。 1977年9月、米国はパナマの最高指導者トリホス将軍(実質1968-81)と新運河条約を締結し、99年12月31日夜12時に運河をパナマに返還する、ことを決めた(「カーター・トリホス条約」)。前後して、キューバと利益代表部相互設置を取り決めた。国交回復には至らずとも、直接交渉が可能となる。以後、さらなる対キューバ制裁緩和措置が次々に出されていった。一面で、80年にキューバから12万人もの難民が米国に向かった。 (3)レーガン政権(共和党。1981-89) 対ソ戦略兵器削減交渉(START)、という世界史的偉業を開始したレーガン政権期、ラ米ではチリとパラグアイを除く軍政諸国が民政移管を実現した。つまり、ラ米民主化時代と重なる。また彼は新自由主義(市場原理)経済の強力な信奉者としても知られるが、1982年8月のメキシコによる対外債務返済猶予要請を発端に陥った債務危機の時代とも重なる。 1982年4月、軍政下のアルゼンチンがマルビナス(フォークランド)進攻を断行し、これがイギリス軍出動を招くフォークランド戦争に発展した(別掲「ラ米の戦争と軍部」の二十世紀の国家間戦争参照)。米国は自らが主導した47年のリオ条約を発動せず、逆にイギリスを支持した。結果的には国際的非難を浴びていたアルゼンチン軍政の終焉を早めることに繋がっている。 対外債務問題解決では、87年3月にブレイディ・プラン(事実上の債務削減)を打ち出し、債務国救済に当たった。ラ米諸国は、彼が信奉する新自由主義経済路線に舵を切り始めたが、この背景には「ワシントン・コンセンサス」で知られるようになるIMF主導の経済構造改革(財政赤字是正、補助金カット、為替レート是正、規制緩和、公営企業の民営化など10項目)がある。ショック療法でもあり、債務危機後の10年間、ラ米諸国は一人当たりのGDPがマイナスとなる「失われた十年」を余儀なくされた上に、元々の社会的 (4)ブッシュ政権(共和党、1989-93) 東欧民主化が訪れ、1991年にはソ連が解体、名実ともに東西冷戦は終結した時に政権にあったブッシュ(父)大統領は、就任の初年の1989年12月、米軍をパナマに侵攻させた。83年以降の事実上の同国最高権力者、ノリエガ将軍の捕縛と米国移送を目的とするもので、同将軍の麻薬取引関与がその理由だ。米国はコロンビアに対しても麻薬犯の対米引渡しを要求していた。また、92年10月、ソ連解体などで経済苦境に陥ったキューバに対し制裁強化に戻る。 1992年12月、債務危機を乗り切ったメキシコに対しては、カナダと共にNAFTA調印に漕ぎ着けた。経済統合の形で市場主義経済圏をラ米に拡大するものだ(別掲ラ米の地域統合参照)。
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