フランクリン・ルーズベルト(民主党。在任1933-45)は米国で唯一、連続三期(三期目の最終年に病死)を務めた大統領だ。日本では「ヤルタ会談」の立役者として、米国では「ニューディール政策」で、ラ米では「善隣政策(Good
Neighbor Policy)」で有名である。「棍棒政策」のセオドア・ルーズベルトとは親戚関係にあるが、政治思想などは全く異なる。
1929年のアメリカ発世界恐慌は、国際相場に左右される一次産品に依存する輸出経済のラ米諸国を直撃した。その多くの産品が、米国を最大の顧客、とする。苦境に陥った米企業からの投資も止まる。ラ米諸国の反感が募る。圧倒的な武力を背景とした米国の棍棒政策は、米州諸国に反米を煽る元だ。翌30年、フーヴァー政権(共和党。在任1929-33)が公的メモの形で、「モンロー主義の(セオドア)ルーズベルト系論」の放棄を明記した。
(1)干渉権の緩和
善隣政策自体は、フランクリン・ルーズベルトの専売特許ではない。この具体例を下記に示すが、彼の前任者が最初のニカラグアからの米軍引き揚げを実施した。米国の干渉権を緩和する措置に注目すべきだろう。だが、内政不干渉が前提の政策として本格的に動くのは、やはり彼の時代だ。
- 1933年1月(フーヴァー政権下)、ニカラグア駐留米軍を撤収した。3年半後の36年6月、事実上の無血クーデターを起こしたソモサ(最高権力者期間1936-56)は米軍指導で創設された軍組織、国土警備隊の長官だったのは皮肉だ。
- 1933年12月に開催された第7回汎米会議で、「米州諸国間の相互不干渉」が宣言され、米国の国際公約となった。以後、ラ米諸国に対する軍事行動は30年以上起きていない。
- 1934年5月、キューバに対する「プラット修正条項」撤回。相手は34年のクーデターで最高権力者となったバティスタ(最高権力者期間1934-44、1952-58)の政権だ。
- 1936年3月、パナマと「ハル・アルファロ条約」を締結。対パナマ干渉権を撤廃、運河主権のパナマ帰属を認める。
- 1938年3月のメキシコのカルデナス政権(在任1934-40年)の石油国有化に対し、米国石油企業の訴えにも拘わらずこれを黙認。彼は、米国大統領がルーズベルトでなければ、国有化実現は難しかった、と漏らしたという。
- 1940年6月、1930年にクーデターで実権を掌握したトルヒーヨ支配(1930-61年)下のドミニカ共和国で33年間に及ぶ関税管理終了。彼もニカラグアのソモサ同様、米軍統治時代に創設された国土警備隊長官
(2)第二次世界大戦期の善隣外交
1941年12月の日本海軍によるハワイの真珠湾襲撃で米国が参戦に踏み切った第二次世界大戦に関し、ルーズベルト政権はラ米に対して;
- カリブ海域及び南米大西洋岸の軍事基地
- 資源(よく言われるのは水晶とゴム)確保
- 米国との対枢軸(日独伊)共闘
- 共闘がダメでも枢軸側の西半球の軍事拠点設営の拒否(中立)
を要求した。ラ米諸国は程度の差こそあれ、これに応じた。特にパナマとブラジルは軍事基地使用権を、メキシコは人手不足の米国に労働力を提供した他、ブラジルはイタリア戦線(44年)に、メキシコがフィリピン戦線(45年)に派兵している。
積極的に応じた3ヵ国の内、パナマは前述の「アルファロ・ケロッグ協定」の流れによる措置だが、他の2ヵ国は明らかに異なった。米国と一線を画し続けた革命後のメキシコでは、アビラ・カマチョ政権(1940-46)が大戦下で対米関係修復を進めた。45年2月、米州特別外相会議で米州の集団自衛権を採択した「チャプルテペック宣言」を主宰した。戦後、首脳交流も行われるようになり、両国関係が著しく好転した。米国はブラジルのヴァルガス政権(在任1930-45、51-54)には、近代製鉄所の建設プロジェクトを積極的に支援、且つ近代兵器の供与、軍事訓練の協力を進めた。チャペルテペック宣言まで旗幟を明らかにしなかった隣国のアルゼンチンとは対象的な扱いだ。
(3)南米に根付く米国の影響力
米国のフランクリン・ルーズベルト時代、忘れてならないのは、第一次大戦後強まっていた南米に対する米国の影響力が、決定的に根付いたことだ。工業部門の伸長が背景にある。
大戦中、ラ米の食料輸出が、国内生産が停滞していた戦争当事国からの需要増により大きく伸びた。金属資源についても、特に米国の需要増で、やはり伸びた。一方では、物資の輸入が滞るようになり、その国内生産が必要になった。後世、色々な批判に晒されるラ米の輸入代替産業の振興策には、このような背景がある。国家主導型の経済政策に批判的な米国も、この時期は工業投資を技術移転などの面で支援し、必要な資本財を供与した。
ルーズベルトは、チャプルテペック宣言の2ヵ月後に死去した。
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