東西冷戦初期の米国による米州イニシアティヴ |
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① ラ米諸国を民主主義ブロック化し、一党独裁主義の共産圏との顕著な違いを見 ② ラ米諸国から共産党を非合法化、乃至は政権から排除すること (1)民主主義ブロック化の試み 米国のイニシアティヴにより、それまでの独裁国家の多くが形の上では、代表制民主主義に移行した(別掲の「軍政時代とゲリラ戦争」の軍政時代前夜参照)。また、下記の重要措置が講じられた。 ① 1947年9月、「米州相互援助条約、リオ条約とも呼ぶ」締結 米州の一国が他国より攻撃を受けた場合、これを米州全体への攻撃と見做す、とする集団的自衛権を規定するもので、北大西洋条約機構(NATO)に先行する。46年にパナマの米軍南方総司令本部に設置されたラテンアメリカ訓練センター(63年に「アメリカ学校≪The School of the Americas、SOA≫」に改組)でのラ米軍人訓練を含め、ラ米の軍事システムの対米一体化が進められ、52~54年、各国は対米安保条約を締結する。 ② 1948年4月、「米州機構(OAS)憲章、ボゴタ憲章とも呼ぶ」採択 米州の政治的連帯を推進する一方で、相互不干渉をも規定したもので、政治的一体化を構築するOASが創設された。事務局はワシントン。コロンビアのリェラス・カマルゴ(その前後、臨時45-46、民選58-62と二度大統領を務めた)が初代事務総長(1948-53)に就いた。朝鮮戦争(1950年6月~53年7月)に、コロンビアはラ米で唯一派兵し、対米緊密度を深めた。 一方で、1948年10月にはペルー、11月ベネズエラ(46年、建国後初めて民選の文民政府が発足したばかりだった)、12月エルサルバドルで軍事クーデターが起きている。ニカアグア及びドミニカ共和国の実権は相変わらずソモサとトルヒーヨにあった。コロンビアはビオレンシア(暴力)時代(~64年)に突入し、民主主義ブロック化は早くも褪せてきた。 ところで、1948年2月、OAS発足直前に、国連の下部組織として「ラテンアメリカ経済委員会(英語名略称でECLA)」(現在の「ラテンアメリカ・カリブ経済委員会ECLAC)」が創設された。事務局は国連所在地でもOAS事務局のワシントンでもなくチリのサンチアゴに置かれた。市場主義経済を奉じる米国の価値観からすると相容れない「従属論」(先進工業国に経済従属してきたラ米には国家主導で行われる「輸入代替産業振興策」は不可欠、との主張)者のアルゼンチン人のプレビッシュ(Raúl Prebisch、1901-86)がこの第二代事務総長(1950-63)を務めたほどで、独自路線が窺える。 (2)共産党の非合法化 ラ米では最も民主主義が根付いたチリで、共産党を含む「人民戦線」の政権が事実上続いていたが、48年2月、共産党を非合法化し、名実ともに終わった。ラ米の他諸国でも、政権党からは程遠かったが、共産党非合法化が広がっていく。米国の強い意志を受け入れたためだ。共産党の影響下にある、と米国に看做され、崩壊した政権として有名なのが、グァテマラのアルベンス(在任1951-54)大統領のそれである。1953年、米国の大統領はアイゼンハワー(在任1953-61)に代わった。20年ぶりに共和党政権だ。 グァテマラでは1944年のウビコ独裁崩壊(グァテマラ革命)で、建国以来続いた独裁政治に終止符が打たれた。アルベンスは、その二代目だった。54年6月、ホンジュラスを基地にしていたアルマス将軍が彼を追放した。52年の共産党合法化を含むアルベンス路線を「共産主義的」と断定した米国は、54年3月のOASで「国際共産主義干渉反対」を提起、その決議が採択されたことを理由にアルマス将軍を支援した。アルベンス政権が行った農地改革の対象がUFCOに拡大されたことが、実は本当の理由、とも言われる。米国が希求する米州ブロックの民主化とは全く相容れないだけに、後年、米国の識者が概して、史上最悪の愚策だった、と批判するようになったようだ。 この当時のラ米諸国政府は、この事件に特段の反発は見せなかった。当時コロンビアでほぼ一世紀ぶりの軍政(1953-57)が敷かれ、ブラジルではヴァルガスが自殺、パラグアイではストロエスネル独裁政権が発足、アルゼンチンでは政情不安(翌年ペロン追放の軍事クーデター)など、夫々に自国のことで手一杯だったこともあろう。だが、これを目撃した後のキューバ革命の英雄、ゲバラは、革命後米国を敵視するようになる。
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