ラプラタ諸国のカウディーリョたち |
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カウディーリョを最も強くイメージするのは、アルゼンチン、及びパラグアイとウルグアイを含むラプラタ、だろう(現ボリビアのアルトペルーはペルー副王軍が出張り、ラプラタから切り離された)。ラプラタは、1810年5月、ブエノスアイレスの公開カビルドで、植民地人代表が副王を罷免し自らの自治政府を立ち上げた後、副王領を引き継いだはずが、地域ごとに分裂するベクトルが働いた。1816年7月の「リオデララプラタ諸州連合」独立宣言時、州レベルで夫々最も強力なカウディーリョの支配下にあり、本来、その一州だったパラグアイは独立済みだった。アルティガス支配下のバンダオリエンタルは、独立宣言式典に招待すらされず、その後ブラジル・ポルトガル連合王国に併合された。残るアルゼンチン自体も、更なる分離の危機を内包していた。 (1)パラグアイ この国は独立後間も無くしてから56年間に及ぶ期間を、親戚、親子関係にある僅か3人のカウディーリョが支配した。先ず、1811年5月の独立宣言でパラグアイ三頭政治の一角に食い込んだフランシアは、同地では珍しい高学歴を誇り、事実上14年6月に終身最高執政官となった人だ。その間民兵軍がブエノスアイレスから派遣されたラプラタ政府軍を悉く撃退している。また現ウルグアイ、ボリビアの解放を含むラプラタ諸州連合内の内戦への不介入を決め、パラグアイ国家統合に邁進した。 フランシア死去後、彼を引き継いだのは彼の甥に当たるカルロス・ロペス(*1)だ。独立国家として大統領制導入は不可欠、憲法も同様、との判断で、1844年、独立後初めて憲法を制定、自らが大統領に就任、且つ、開国へと国策転換を図った。 ソラノ・ロペス(*2)は、そのカルロス・ロペスの息だ。開国を図った父親の政権下、二十代の若さで特命全権公使としてヨーロッパ列強を歴訪し、兵站物資や武器、艦船の調達に当たり、軍事大国化に動いた。帰国後は国軍の最高位将軍兼軍機相となり、1862年9月に父親が死去すると議会招集の手続きを踏み正統な大統領となった。ラ米史上、親子間で大統領を引き継いだ初めてのケースだ。弱冠36歳だった。自国を国家的破局に追い込んだ「パラグアイ戦争」(1864-70年。別掲「ラ米の戦争と軍部」のラ米確立期参照)の責任者でありながら、後世、英雄の一人として敬われる。69年1月のアスンシオン陥落後も、1年以上も戦い抜き、70年3月1日、43歳の若さで戦死する。最後の戦闘直前、同盟軍司令官から助命と引き換えの降伏勧告を受けたが、「祖国のための死を選ぶ」と返答したことが知られる。3月1日は、パラグアイの「英雄たちの日」として、独立記念日の5月15日に次ぐ重要な祝日となっている。この戦争は強国(ブラジル及びアルゼンチン)の不当な横槍によるもの、小国ではあっても、彼はそれに抵抗し、最後まで誇り高く戦った、との解釈からであろう。 (2)ロサス、国家統合無きアルゼンチン 1816年の独立宣言の後、初代「リオデララプラタ諸州連合」(以下「諸州連合」)最高頭領に選出されたプエイレドン(*3)は3年も持たず、19年以降、最高指導者が不在の状態にあった。ただ制憲議会が機能し、25年1月、諸州連合基本法を制定、初代大統領にリバダビア(*4)を選出する。だが27年7月に早々と辞任した。同基本法は、連合大統領不在時はブエノスアイレス州知事が国家元首の職務を認める、と定めていた。同年8月より、これが適用されることになる。 1828年のウルグアイ建国で、ラプラタで残ったのは現アルゼンチンだけとなった。1829年12月のブエノスアイレス州議会の指名によりロサスがその州知事に就任した。以後、52年2月まで、彼が事実上のアルゼンチン最高権力者の座にあった。当時のアルゼンチンは国家統合を図る「ウニタリオス」(統合派)と、州ごとの国家並み自治権を追求する「フェデラレス」(連邦派)が抗争を繰り返していた。後者は、各州を支配するカウディーリョに代表される。彼は、連邦派に付いた。31年1月、隣接3州と「連邦協定」を結んだが、これは前者に対する抗争に協力して当たろう、というものだ。その後殆どの州が同協定に調印、「アルゼンチン連合」(以下、「連合」)と呼ばれる緩い国家形態が出来上がった。また結果的に、ロサスを筆頭とする連合軍に対する統合派の反乱、という形の内戦が、アルゼンチン全土で展開されることになった。ウルグアイをも巻き込んだ。 ブエノスアイレスの隣、エントレリオス州のカウディーリョのウルキサ(*5)も、1841年末、同州知事に選出される前から、連合軍の強力な司令官としてロサスと呼応する形で統合派との内戦に参加していた。だが51年5月、反ロサス宣言に至り、統合派、及びウルグアイとブラジルとの同盟関係を結びブエノスアイレスに進軍、52年2月の (2)ウルグアイの親、反ロサス 1825年4月、ブラジルに併合されシスプラチナと呼ばれていたバンダオリエンタルに帰還した「不死身の33人衆」の一人が、オリベ(*7)である。リベラ(*8)はブラジルのシスプラチナ軍将校だったが、33人衆と共にブラジルからの独立闘争に舵を切る。ウルグアイ建国は国家統合すら果たしていないアルゼンチンの対ブラジル戦争の結果だが、オリベは連邦派、リベラは統合派との繋がりが強く、建国後の二人の関係には、アルゼンチンの国内事情が強く現れる。 だがウルグアイのカウディーリョ支配は続いた。パラグアイ戦争ももともとブラジルの支援を受けたコロラド党のフロレス(*9)による武力蜂起が引き金となっている。 人名表(アルティガスはラ米の独立革命参照): (*1)カルロス・ロペス(Carlos Antonio López、1790-1862):パラグアイ。22年間
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