アンデス諸国のカウディーリョ

 

独立革命は建国事業へと続く。ボリーバルは概ねヌエバグラナダ副王の管掌地域をそのまま引き継いだグランコロンビアを建国し、その大統領となった。エクアドル解放前だ。彼は、副将でベネズエラ人のスクレと共にエクアドル、ペルー及びボリビアの解放事業のため転戦し、グランコロンビアの内政は副大統領、サンタンデルに委ねた。現コロンビアの人だ。ボリーバルによる1819年の「ボヤカの戦い」で真っ先に解放されたのは現コロンビアで、王党軍との戦闘が最も激越だった彼の生国ベネズエラの解放は、1821年の「カラボボの戦い」まで掛った。この時に活躍したのがリャネロのパエスの持つ武力勢力だ。この功績でパエスはカラカスを含むベネズエラ西側一帯の管轄が委ねられる。1822年、スクレが「ピチンチャの戦い」でエクアドルを解放し、ペルー転戦に向かうと、彼の代わりに軍政官として残ったやはりベネズエラ人のフロレスが、エクアドルを管轄することになった。ペルーを最終的に解放した1824年の「アヤクチョの戦い」も、1825年にボリビアを解放したのもやはりスクレだが、これにはペルー人のガマラとボリビア人のサンタクルスが夫々の兵力を伴って参加した(以上、各戦争に就いては別
ラ米の独立革命参照)。

(1)ベネズエラ

ベネズエラの最終的解放は、182311月のスペイン軍撃退による。これにもパエスが貢献した。これで彼は、グランコロンビアのベネズエラ地方では、軍事面での最高権力者としての地位を確立した。26年、サンタンデル副大統領との軋轢の高まりを知り、271月にボリーバルがペルー建国を中途のままにしてカラカスに帰還したのは、彼への宥和もあった。この時に彼をベネズエラ地方の軍民最高司令官に任命している。だが結局その2年後の2911月、ベネズエラのグランコロンビアからの離脱を宣言し、翌301月に臨時政府を立ち上げた。ボリーバルがグランコロンビア大統領を辞任したのは、その2ヵ月後のことだ。

18309月、米国憲法をモデルとした憲法を制定、彼自身は選挙人方式による選挙で、任期4年の初代大統領になった。この頃、ラ米新興国の殆どが連続再選を禁止していた。35年の選挙では文民が大統領に選出された。黎明期のラ米では、極めて珍しい。軍部で不満が募り、文民大統領追放の動きがあったが、これはパエスが潰した。38年、リャノ(西部湿原地帯)でもいわゆる改革派グループが武力蜂起したが、これも制圧した。そして39年、大統領に再選される。次の43年の大統領選では彼の第一次政権での副大統領で軍人が選出された。この政権下、再びリャノで大衆蜂起が起きたが、パエスが立憲軍主席司令官としてこれを制圧した。つまり、彼自身の政権期は国情が平穏で、他が政権を担っている時期には反乱が起きるが、彼がそれらを制圧する恰好で、29年から47年までの実質上のパエス時代は、他国に比べ比較的に平穏に推移した。

18471月、やはり独立革命で活躍したカウディーリョのモナガス*1)が決選投票の結果、大統領に選出され就任した。この頃自由主義者による政治結社、自由党も出来ていたが、議会は保守派が大半を占めていた。モナガスは自由党に接近し議会を敵視した。これに対し483月、パエスが蜂起したが、今度は敗退を喫し、最終的に50年に亡命する。ベネズエラ史にいう「モナガス期」は、583月まで続き、パエスは同年末に帰国した。609月、今度は事実上のクーデターで三度目の政権に就く。前年に勃発し、独立革命戦争並みに激越だった、とされる、「連邦戦争」と呼ばれる内戦の殆どは彼の政権期に行われ、連邦主義勢力の反乱軍が事実上の勝利を収め、636月、彼は和平の上、最終的にベネズエラ政治から退場、後に亡命地で死去した。

(2)エクアドル

18284月にボリビアから追放されたスクレには、グランコロンビアの南部管轄が委ねられた。18292月、彼が侵攻してきたペルー軍を「ポルテテデタルキの戦い」(別掲「ラ米の軍部と戦争」黎明期の戦争参照)で撃退した時、大きな軍功を上げたのがキト軍政官を務めていたフロレスである。これで、29歳にしてグランコロンビア南部師団長に任命された。

フロレスはベネズエラの下層階級出身だ。少年時代に王党派兵士として徴募に応じ、その後、ボリーバル率いる独立派に鞍替えし、軍人として出世を重ねた人で、その彼が18305月、グランコロンビアからエクアドル地方の分離独立を宣言した。スクレがボゴタからの帰途、暗殺されたのはこの1ヶ月後のことだ。独立後は彼を最高指導者とする手筈だったため、弱冠30歳になるかならぬかの次席、フロレスが急遽、最高権力者となり、同年8月の憲法制定を経て9月、初代大統領に就いた。グランコロンビアで残った現コロンビアとは南部の帰属権を巡り緊張関係を来たし、一方ではエクアドルの自由主義勢力との抗争を抱え、彼は軍事的に強権化する。35年に大統領となったロカフエルテ*2)は自由主義派の指導者的存在だったが、その政権下、フロレスは国軍最高司令官として睨みを利かせ、39年に大統領に復帰、憲法改正で43年に連続再選されるが、結局453月の反乱軍により追放され、ベネズエラのパエスより5年早く国外亡命した。それまで15年間、最高権力者だったことになる。
 在外中フロレスは、
ラ米独立国家は君主制が相応しいと行脚したことが知られる。パエスとほぼ同じく59年に帰国し、ガルシア・モレノ*5)という、有名な保守主義者が蜂起した時の反乱軍を指揮し、こちらの方は勝利した。ガルシア・モレノはローマ法王庁との協約を結び教会特権を復活させるなど、この当時としては逆行気味の保守政策で知られ、75年に暗殺される。

(3)ペルーとボリビア

植民地時代ボリビアはアルトペルー(上ペルー)と呼ばれていたほどに、ペルーとは人種的、文化的には同根である。ただアルトペルーはラプラタ副王領に編入されていたことから、副王追放後のラプラタ政府はラプラタ帰属を当然視して制圧軍を派遣していた。ガマラとサンタクルスのいずれもペルー副王軍に入隊し、ラプラタ軍と戦う。独立派軍に鞍替えしたのはサンマルティンのペルー上陸作戦が契機となった。ただ、二人ともペルーとボリビアは一体、という考え方をしていた。

18284月、ボリビア終身大統領だったスクレの追放作戦を展開したのはガマラである。1829年、駐チリ公使だったサンタクルスが大統領に就いた。ボリーバルが作ったボリビア憲法は破棄され、31年、彼の政権下で新憲法が制定される。一方のガマラは、ボリーバルが大統領を務めるグランコロンビアへの武力侵攻、及び上述の「ポルテテデタルキの戦い」の敗戦を来たした当時の大統領を追放し、最高権力を獲得、29年に選挙人方式の大統領選で立憲大統領に就く。34年、35年と二度に亘り後任大統領に対する反乱を起こし、最終的にチリに亡命する。

18366月、サンタクルスはボリビア大統領のまま自らを最高護国官とする「ペルー・ボリビア連合」1836-39年)樹立を宣言したものの、「連合戦争」の敗戦で連合が崩壊し最終的に失脚する。以後死去するまでの37年間、フランスを中心に外地にあり、パエスやフロレスと異なり、復活は成らなかった。一方のガマラはこれを機にペルー大統領に復権したが、別の立場からボリビア併合を試み侵攻したインガビの戦闘で戦死(以上、別掲「ラ米の軍部と戦争」黎明期の戦争参照)した。

事実上の敗戦でペルー国内は内乱が頻発した。これを1844年に収束させ、以後62年までの最高権力者の座にあったのがカスティーリャ(*3)である。やはり独立革命世代の人で、ガマラ政権下では国防相だった。この頃ヨーロッパで有機肥料としてペルー国有地に飛来する海鳥の糞(グァノ)に注目が高まった。この輸出収入はそのまま国庫に入る。財政が落ち着き、且つ南米最初の鉄道建設を含め、国土開発に漸く本腰を入れられるようになったのが国情安定に寄与した。だが、62年の退陣後、復権を図って失敗し、最後には亡命先のチリからの帰途、死去している。

ボリビアでもカウディーリョ支配、且つクーデターによる政権交代が続いた。その中で比較的長期に政権を担ったベルスー*4)は、ラ米で半世紀以上経って出現したラテンアメリカ型ポピュリストの先駆者的存在でカリスマ性も強かったが、別のカウディーリョにより殺害されている。

 

人名表

 

*1T.モナガスJosé Tadeo Monagas1784-1868):ベネズエラ。大統領
   (1847-5155-58)。51-55
年の4年間は弟のホセ・グレゴリオ(1795-1858
   が大統領を務める。

*2ロカフエルテ(Vicente Rocafuerte1783-1847):エクアドル。文民大統領
   (1835-39)。1843年、
フロレスの大統領連続再選に抗議し亡命先のリマから
   フロレス追放運動

*4カスティーリャRamón Castilla y Marquesado1797-1967:ペルー。大統領
   (実質1844-51
185462)。グァノ時代。南米最初の鉄道建設
*5ベルスーManuel Isidoro Belzu Humerez1808 -1865)ボリビア。大統領
   (実質1847-55
)。退任後も死去するまで影響力保持

 

*3ガルシア・モレノGabriel García Moreno1821-1875エクアドル)についてはラ米略史ラ米形成期の参照。

 

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