メキシコ・中米・カリブ

 
 サンタアナが、前述のロサスと並ぶラ米史上最も有名なカウディーリョ、と言うのはどの史家にも異存無かろう。二人は生年、没年、活動期とも近い。二人とも、欧米では評判が悪い。ロサスが23年間、殆ど継続して事実上アルゼンチンを支配したが、サンタアナは失脚と復権を繰り返した。
 独立革命自体がイダルゴモレロスという聖職者の呼掛けで大衆動員の形で始まったメキシコは、結局副王軍司令官でありながらクリオーリョのイトゥルビデが副王と合意の上で、独立を果たした。独立後、ラプラタ、さらに言えばアンデス諸国に比べ、分裂のベクトルは弱かった。ただ、テハス(テキサス)の独立と米国併合、及び米墨戦争での領土移譲で国土は半分以下になった。
 中米は、もともとヌエバイスパニア副王の管轄下にあった。独立宣言はメキシコのそれより早かったが一旦帝政メキシコに吸収され、メキシコが共和制に移った時に「中米諸州連合」として発足した。こちらの方は、分裂のベクトルが強く働き、グァテマラのカレラがいわば牽引役となって
5ヵ国に分離した。カリブ島嶼部では、イスパニオラ島の東部がハイチから独立しドミニカ共和国となり、サンターナが建国の功労者らを追放した上で、強権を振るったが、ハイチの脅威から、最後にはスペイン植民地に戻っている。イスパニオラ島に倍する領域のキューバは、長くスペイン植民地に留まっていた。

(1)サンタアナ、失脚と復権を繰り返した人

メキシコでも独立革命で活躍したゲレロ*1)やグァダルーペ・ビクトリア*2)はカウディーリョに入れて良かろう。ただ二人ともモレロスに従った独立革命家、の印象の方が強い。その他にもカウディーリョは多い。この中でサンタアナは、18363月の「アラモの戦い」で米国では非常に評判が悪い。テキサスを失い、465月には国境問題で米軍侵攻を呼び、対米敗戦で領土の過半を米国に割譲させられる元を作った張本人として、メキシコでもえらく評判は悪い。
 彼も若年時代、イダルゴが開始した独立革命に参加している。18232月のイトゥルビデ帝政に反対する「カサマタ綱領」共同提案者の一人として、メキシコの共和制移行にも貢献した。グァダルーペ・ビクトリア初代大統領時代、彼への反乱の試みがあるとその制圧に協力した。28年にはゲレロのクーデターと大統領就任にも関与した。同年、メキシコ奪回のため侵攻してきたスペイン軍を撃退したことで、名声が一気に上がり、334月には立憲大統領に上り詰めた。

最初の失脚は、自ら遠征軍を率いたテハス(テキサス)で、(アラモでは勝ったが)18364月の「サンハシントの戦い」で敗退したためだ。最初の復権は、384月から391月にかけフランス軍が侵攻した時、請われて防衛戦の指揮を執り、事実上敗戦とはなったが、足を失う名誉の負傷で英雄となったことによる。だが、4110月、ユカタン州が分離独立を宣言した。大統領に戻ったサンタアナは自治権拡大を保証することで、43年末までに一旦ユカタンのメキシコ復帰をみている。彼自身は449月までに退陣、この時は逮捕、収監、キューバ亡命、と辛酸をなめた。

18461月、ユカタン州が再度独立を宣言した。同年5月、今度は米国が対メキシコ宣戦布告を行い、直ちに侵攻した(「米墨戦争」18467月~482月。別掲「ラ米の戦争と軍部」黎明期の戦争参照)。亡命中のサンタアナがまた呼び戻され、当初北部戦線で指揮を執っていたが、473月、大統領に復帰した。同年6月、ユカタンでマヤ族が反乱を起こした(「カスタ戦争」)。知事が米国に併合を申し出て米議会がこれを拒否したことが知られる。サンタアナは同年9月の米軍の首都占領の後、大統領を辞任、暫くして亡命する。敗戦となり、482月に米墨間で締結された「イダルゴ・グァダルーペ条約」で領土の半分以上を米国に移譲するわけだが、ユカタンに関しては戦後、メキシコ軍出動で、結果的に同年8月の再復帰が実現した。
 18534月、彼は又しても大統領に復帰した。保守派が、戦後の政情不安を収拾できる人物として、ジャマイカ亡命中の彼を引っ張り出したもの、と言われる。この政権時代にオアハカ州知事だった自由主義者のフアレス*3)を国外追放した。サンタアナ弾劾と制憲議会招集を求める18543月の「アユタラ綱領」はフアレスが起草した。558月のサンタアナ最終的追放、572月の1857年憲法」制定と「レフォルマ戦争」185712-611月)、「抗仏戦争」18624月~673月。別掲「ラ米の軍部と戦争」ラ米確立期参照)を経て、メキシコは漸く建国事業に入れるようになった。

(2)カレラ、中米解体を呼び起こした人

 旧グァテマラ軍務総監領がスペインからの独立を宣言したのは、1821915日だった。その後君主制を前提とした旧メキシコ副王領の独立の動きの中で、これへの参加を認めない自由主義勢力が中米各地で反乱を起こし、メキシコ共和制移行後の237月、「中米諸州連合」(以下「中米連邦」)として正式に独立した。自由主義路線が基本にあり、教会資産の接収も含まれる。今度は保守派が各地で反乱を起こし、29年までにこれを制圧して国家統合を果たしたのがモラサン*4)だ。
 保守派の反発は続く。コレラが流行したグァテマラ州で、18376月、農民蜂起が起きた。信仰心の篤い農村部に教会の影響が強く働いた、とされる。これを率いたのがカレラである。文盲だった、と言われる。384月にはグァテマラを支配下に置き、事実上中米連邦からグァテマラが離脱、これが引き金となって、翌392月までに連邦は5ヵ国に解体した。

主権国家としてのグァテマラ共和国の成立は、北のメキシコが米軍侵攻で対米戦争の最中、18473月のことで、実は旧連邦では遅い方だ。この初代大統領にカレラが就いた。一旦退任するが51年復帰、54年には終身大統領となる。隣国のホンジュラス、エルサルバドルの内政にも介入していたが、「国民戦争」(別掲「ラ米の軍部と戦争」黎明期の戦争参照)には、一致してウォーカー追放に動いた。59年にはベリセ(現ベリーズ)を英国に譲渡している。

カレラがグァテマラの最高権力者として君臨したのは、38年から65年までの27年間に及ぶ。教会資産は返却するなど、旧連邦政府の自由主義政策は悉く破棄した。当時のラ米諸国の中でも最も保守的な政権だった。国内では圧政を敷き、隣国への武力侵攻を行った彼の政権下、国情及び経済的な安定は見られる。国内で、独裁者のまま死去した。

(3)サンターナ、建国の父たちを追放した人

ドミニカ共和国独立の父で1838年に「トリニタリア運動」を指導したドゥアルテは、442月のハイチからの独立宣言時、亡命中だった。ハイチ軍との戦闘は続き、ドミニカ軍を率いていたのがサンターナである。
 樹立されていたフンタ(政府協議会)からドゥアルテ他のトリニタリア運動指導部を追放、自らその議長に座り、制定した憲法に則り、184411月、初代大統領となる。その後クーデターで復権、再びの立憲大統領とクーデターによる復権を経て、大統領のまま、陸続きのハイチへの恐怖から61年にスペイン併合宣言(王室から総督兼軍務総監の肩書取得)に至った。建国の父たちを追放(53年、大統領就任の機会に、ドゥアルテを除くトリニタリア運動家を赦免)しているし、最後には再植民地化に突き進んだカウディーリョとして、後世の評価は低い。

 第一次サンターナ政権後の事実上の立憲後任は、37歳のバエス*5)だった。やはりハイチ軍との戦闘で活躍し、ハイチへの恐怖は彼と共有した。1858年、彼のクーデターで第二次政権が崩壊、65年の再独立後帰国して何度か大統領になり、78年、クーデターで追放され、亡命先で死去した。

 

人名表(イダルゴモレロス及びイトゥルビデラ米の独立革命参照)

 

*1グァダルーペ・ビクトリア(Guadalupe Victoria1786-1843):メキシコ。本名
    José Ramón Adaucto。僧院で修学中、モレロスの独立革命参加。彼の処刑後ゲ
   リラ戦展開。イグアラ綱領(独
立)、カサマタ綱領(共和制移行)に名を連ね
   る。初代大統領(
1824-28
*2ゲレロVicente Ramón Guerrero1782 - 1831)メキシコ。モレロスの独立革
   命参加、トリ
ガランテ軍(立憲君主制、人種間の平等、カトリック国教を保証
   する軍隊)の司令官の一人とし
て首都入城。1828年、クーデターで政権奪取
*5バエスBuenaventura Báez1812-84):ドミニカ共和国。大統領(1849-53
   
56-5870-7476-78)。ハイチへの脅威からフランス保護国化を訴え、後年
   は米国併合を唱えた。

*3フアレスBenito Pablo Juárez García1806-1872メキシコ)、*4モラサンFrancisco Morazán1792-1842ホンジュラス人)については別掲ラ米略史ラ米形成期参照。

 



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