メキシコ・中米・カリブ |
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(1)サンタアナ、失脚と復権を繰り返した人 メキシコでも独立革命で活躍したゲレロ(*1)やグァダルーペ・ビクトリア(*2)はカウディーリョに入れて良かろう。ただ二人ともモレロスに従った独立革命家、の印象の方が強い。その他にもカウディーリョは多い。この中でサンタアナは、1836年3月の「アラモの戦い」で米国では非常に評判が悪い。テキサスを失い、46年5月には国境問題で米軍侵攻を呼び、対米敗戦で領土の過半を米国に割譲させられる元を作った張本人として、メキシコでもえらく評判は悪い。 最初の失脚は、自ら遠征軍を率いたテハス(テキサス)で、(アラモでは勝ったが)1836年4月の「サンハシントの戦い」で敗退したためだ。最初の復権は、38年4月から39年1月にかけフランス軍が侵攻した時、請われて防衛戦の指揮を執り、事実上敗戦とはなったが、足を失う名誉の負傷で英雄となったことによる。だが、41年10月、ユカタン州が分離独立を宣言した。大統領に戻ったサンタアナは自治権拡大を保証することで、43年末までに一旦ユカタンのメキシコ復帰をみている。彼自身は44年9月までに退陣、この時は逮捕、収監、キューバ亡命、と辛酸をなめた。 1846年1月、ユカタン州が再度独立を宣言した。同年5月、今度は米国が対メキシコ宣戦布告を行い、直ちに侵攻した(「米墨戦争」。1846年7月~48年2月。別掲「ラ米の戦争と軍部」の黎明期の戦争参照)。亡命中のサンタアナがまた呼び戻され、当初北部戦線で指揮を執っていたが、47年3月、大統領に復帰した。同年6月、ユカタンでマヤ族が反乱を起こした(「カスタ戦争」)。知事が米国に併合を申し出て米議会がこれを拒否したことが知られる。サンタアナは同年9月の米軍の首都占領の後、大統領を辞任、暫くして亡命する。敗戦となり、48年2月に米墨間で締結された「イダルゴ・グァダルーペ条約」で領土の半分以上を米国に移譲するわけだが、ユカタンに関しては戦後、メキシコ軍出動で、結果的に同年8月の再復帰が実現した。 (2)カレラ、中米解体を呼び起こした人 旧グァテマラ軍務総監領がスペインからの独立を宣言したのは、1821年9月15日だった。その後君主制を前提とした旧メキシコ副王領の独立の動きの中で、これへの参加を認めない自由主義勢力が中米各地で反乱を起こし、メキシコ共和制移行後の23年7月、「中米諸州連合」(以下「中米連邦」)として正式に独立した。自由主義路線が基本にあり、教会資産の接収も含まれる。今度は保守派が各地で反乱を起こし、29年までにこれを制圧して国家統合を果たしたのがモラサン(*4)だ。 主権国家としてのグァテマラ共和国の成立は、北のメキシコが米軍侵攻で対米戦争の最中、1847年3月のことで、実は旧連邦では遅い方だ。この初代大統領にカレラが就いた。一旦退任するが51年復帰、54年には終身大統領となる。隣国のホンジュラス、エルサルバドルの内政にも介入していたが、「国民戦争」(別掲「ラ米の軍部と戦争」の黎明期の戦争参照)には、一致してウォーカー追放に動いた。59年にはベリセ(現ベリーズ)を英国に譲渡している。 カレラがグァテマラの最高権力者として君臨したのは、38年から65年までの27年間に及ぶ。教会資産は返却するなど、旧連邦政府の自由主義政策は悉く破棄した。当時のラ米諸国の中でも最も保守的な政権だった。国内では圧政を敷き、隣国への武力侵攻を行った彼の政権下、国情及び経済的な安定は見られる。国内で、独裁者のまま死去した。 (3)サンターナ、建国の父たちを追放した人 ドミニカ共和国独立の父で1838年に「トリニタリア運動」を指導したドゥアルテは、44年2月のハイチからの独立宣言時、亡命中だった。ハイチ軍との戦闘は続き、ドミニカ軍を率いていたのがサンターナである。 人名表(イダルゴ、モレロス及びイトゥルビデはラ米の独立革命参照) (*1)グァダルーペ・ビクトリア(Guadalupe
Victoria、1786-1843):メキシコ。本名 (*3)フアレス(Benito Pablo Juárez García、1806-1872、メキシコ)、(*4)モラサン(Francisco Morazán、1792-1842、ホンジュラス人)については別掲ラ米略史のラ米形成期参照。
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