1809年に現在のボリビアとエクアドルで始まったスペイン植民地の独立運動は、翌10年には現ベネズエラ、アルゼンチン、コロンビア、チリでの副王、軍務総監罷免やメキシコでの大衆蜂起を来たし、挫折を経つつ1825年までにキューバを除くラ米全域がスペインからの独立を達成した。ブラジルは、1822年、ポルトガル王国の皇太子自身が皇帝に即位する形で本国とは独立した帝国、として建国された(以上、別掲のラ米の独立革命参照)。独立の先輩である米国のモンロー大統領が、列強によるアメリカ独立国への非介入を訴える「モンロー宣言」を出したのは翌23年12月で、この時点では、どこも旧宗主国からの承認は得ておらず、ラ米新興諸国にとって同宣言の意義は大きかった。
1825年のラ米人口は学者により異なるが、概ね約2千万人程度、とするのが通説のようだ(国別については、別掲「カウディーリョたち」の建国時の社会状況を参照)。これが1870年には3,600万人になった、とされる。約半世紀で1.8倍に増えたことになる。いずれも、二千万平方キロの広大な地にあって、驚くべき過少人口といえよう。
旧スペイン植民地では副王、軍務総監などという重しが取れ、国家指導者たち同士が抗争を繰り返した。割拠するカウディーリョと呼ばれる豪腕実力者らが活躍する時代状況が、こうして生まれた。国家分裂を含め、内戦と内乱が多発した。また欧米列強の武力介入、軍事侵攻も起きた。隣国同士の戦争も起きた。多くの国で、カウディーリョ自身が政治支配者ともなった。本項で概観するのは、こんなラ米である。
(1) ラ米統合の挫折
1826年6月、グランコロンビア(現ベネズエラ、コロンビア、エクアドル)のボリーバル(*1)大統領は、自国のパナマで、ラ米独立国会議を開催した。集合したのは開催国以外ではメキシコと中米連邦、及びペルーの4ヵ国である。当時独立国としては、他に、パラグアイ、アルゼンチン、チリ、ブラジル及びボリビアの南米南部5ヵ国もあったが、代表者を送っていない。会議直前に、ブラジル・アルゼンチン戦争(1826-28。ウルグアイ建国を斡旋したイギリスの仲介で終戦。これを含め、緑字で表記するラ米の戦争・内戦については別掲のラ米の軍部と戦争を併読願いたい)が勃発した。彼が同会議で目指した複数国による強力な連合国家つくりは、始めから挫折していた。同会議で決議されたのは夫々の国家主権の承認や上記モンロー宣言などにとどまった。
1830年、彼自身のグランコロンビアが解体(結果として、ラ米は12ヵ国に増えた)した。同年彼は死亡するが、ラ米を治めるのは海を鋤と鍬で耕すようなもの(統治不能)と嘆いたことが伝えられる。1838年、「中米の父」として敬愛されるモラサン(*2)が心血を注いだ中米連邦も、5ヵ国への解体が始まった。1844年、ハイチの支配下から独立したドミニカ共和国を含め、ラ米は17ヵ国にもなった。
(2)建国の苦悩
旧スペイン植民地諸国では全体として、米国をモデルとした立憲共和制が導入された。大統領は議会、若しくは選挙人が選んだ。議会に送り込まれる議員は、有産の知識階級が選んだ。選挙制度は十分機能せず、その時々の権力者には正統性が付き纏った。国家路線を巡る自由主義(地方分権、政教分離)と保守主義(中央集権、教会権威重視)の非妥協的対立が拍車をかけた。ここに、武装勢力の頭目ともいえるカウディーリョが跋扈する。ラ米史でよく言われる「カウディーリョの時代」だ。幾つかの類型を挙げる。カウディーリョ名は紫字で示す。別掲のカウディーリョたちを併読頂きたい。
- 強力なカウディーリョによる独裁:パラグアイ。1813年、事実上最も早い独立を成し遂げた後、フランシアの独裁体制を築く。
- 国家解体:ベネズエラとエクアドル(グランコロンビアからの離脱)、グァテマラ(中米連邦からの離脱)。前者はいずれもベネズエラ人のパエス及びフロレスの主導で1830年に分離独立。後者は農民軍を指揮したカレラがグァテマラ州政掌握、結果的に中米解体引き金となった。
- 二人のカウディーリョによる権力闘争:ウルグアイとドミニカ共和国。1828年建国のウルグアイ、1844年独立のドミニカ共和国、いずれも夫々二人のカウディーリョによる権力闘争が長期に亘って繰り返された。
- 相互干渉からの連合結成と崩壊:ペルーとボリビア。後者のサンタクルスによる 「ペルー・ボリビア連合」(1836-39)成立と対チリ連合戦争(1837-39)での敗北、連合崩壊、前者のガマラによる後者併合の試みと失敗へと推移した。
- カウディーリョ割拠で国家統合の遅れ:アルゼンチン。1816年の独立宣言、26-28年の対ブラジル戦争の流れの中で、カウディーリョ割拠時代が長く続いた。その中でブエノスアイレス州知事のロサスによる強権政治が長く続いた。
メキシコでは独立後国造りも中途半端な状況下、1828年のスペイン、38年のフランスの夫々の海軍が上陸、これへの撃退戦、テキサス独立(36年)に続く46年の米国併合が発端の米墨戦争(1846-48)と半分以上の領土の対米譲渡など、悲劇的な建国期を余儀なくされた。アルゼンチンとは背景が全く異質だが、同様に、国民国家の建設は遅れた。サンタアナが節目ごとに登場する。米墨戦争前より米国では「マニフェスト・デスティニー」が叫ばれていた(別掲「ラ米と米国」のマニフェスト・デスティニー参照)。
中米ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、エルサルバドル、及びコロンビアでも強力ではなかったにせよ、カウディーリョの活躍は見られる。
チリは、建国期の早くに出現したポルタレス(*3)という保守政治家により作られた「1833年憲法」を基に国内固めを進めていて、これが上記の連合戦争に勝利した後、ラ米で例外的に早い国民意識の形成に繋げた。立憲体制が整うと、カウディーリョの登場も必要無くなる。
帝政を採ったブラジルには正統性の問題はなかったが、第二代皇帝ペドロ二世(*4)の幼少期に敷かれた摂政政治期(1831-40年)には各地で反乱が起きた。
(3)国家確立に向かって
ラ米植民地の大半が独立を達成して四半世紀が過ぎた。少しずつではあるが、独立国家としての体制も多くで整いつつあった。下記に1850、60年代の動きを見る。
- アルゼンチン:1853年、独立宣言後37年経って初めての憲法制定に漕ぎ着けた(現在も有効な「1853年憲法」)ものの、現在の形に統合された国家形成には、1862年のミトレ(*5)大統領就任まで待つことになる。
- メキシコ:1854年、先住民のフアレス(*6)らが率いる自由主義勢力による「レフォルマ(改革)運動」の結果、「1857年憲法」が制定された。これが保守派勢力との「レフォルマ戦争(1858-60)」、さらにこれが62年からのフランス軍侵攻とハプスブルグ帝政(1864-67)に繋がり抗仏戦争を余儀なくされた。建国事業が漸く本格化できたのは、67年のマクシミリアン(*7)皇帝の処刑後と言える。
- 中米:1855年、保守派政権下で概ね安定していた中米5ヵ国の中で例外的に国情不安にあったニカラグアに、米人冒険家ウォーカーが傭兵隊を率いて来た。同国自由主義勢力の招請による。彼が大統領を僭称するに至り、中米諸国が共同して武力追放する(ウォーカー戦争(国民戦争)。1856-57)。
- コロンビア:1858年、国名が、建国以来の「ヌエバグラナダ共和国」から「グラナダ連合」に変わった。同国では49年に今日まで続く自由党と保守党が結成されたていたが、国家路線を巡る抗争や内乱の頻発を抑えるため、双方妥協により緩やかな連邦制を採り入れた結果だ。だが、僅か5年しか経たない63年、当時下野していた自由党がクーデターで政権を奪取した後に、徹底した連邦制を狙って「コロンビア合衆国」へと国名を変え、国家としての纏まりが弱まった。
- ベネズエラ:1859年、いわゆる「連邦戦争(~63年)」が起き、この国の政情も流動化、1870年、自由党(47年結成)のクーデターを指揮したグスマン・ブランコにより国家安定の時代に入った。
- エクアドル:1860年、十数年来頻発する内乱を、ガルシア・モレノ(*8)がクーデターで政権を掌握する形で収めた。以後、徹底した保守主義政策がとられていく。
- ドミニカ共和国:1861年、スペイン植民地に戻った。ラ米独立国では史上唯一だ。当然激しい反対運動が沸き起こり、内乱に発展し、65年、再独立に漕ぎ着けている。以後、カウディーリョの復権、失脚が続き、国家安定にはまだ時間を要した。
- ペルー:1864年4月、スペイン軍艦が最大の輸出産品、グァノ(鳥の糞、肥料用)の産地チンチャ諸島を占領。66年1月、ペルーがスペインに宣戦し、同年9月までに撤収させる(いわゆる「第二次独立戦争」)
- パラグアイ戦争(三国同盟戦争):1864年、ウルグアイの二人のカウディーリョを起源とするブランコ、コロラド二党間抗争が切っ掛けとなり、パラグアイによる対ブラジル戦争(翌年ブラジルにアルゼンチンとウルグアイが同盟~70)に発展した。パラグアイは人口の半分を失ったといわれる破局を経て再建には十数年を要した。一方で、アルゼンチン、ウルグアイの国内体制は確立した。ブラジル共和制への助走も始まった。
上記の内、スペインによるドミニカ共和国の再植民地化とペルーのチンチャ島占領、及びメキシコへのフランス軍侵攻とハプスブルグ帝政樹立が、1861-65年の4年間に亘る米国南北戦争と重なったのは偶然ではない。
ところで、幾つかの国での国情安定には、貿易が増え財政状態が好転したことも無視できない。欧米先進国は産業革命により、金属、繊維原料、食料に対する需要を急増させた。ラ米諸国はその一大資源地域だ。国庫の殆どを関税収入に頼るラ米諸国の政権は、資源開発に腐心するようになる。これには国内治安回復と共に輸送の大量・高速化の実現が必須だ。鉄道が登場した。1837年、未だ植民地だったキューバに、次は1850年、コロンビアの一州だったパナマに敷設された。1851年のペルーを皮切りにアルゼンチン、ブラジルなど南米各国で鉄道建設は進む。貿易量、或いは乗客数(パナマの場合)の増加で、港湾や都市機能も整備され始めた。
1868年、最期の植民地キューバで独立革命戦争が勃発した(第一次。~1878年)。
人名表
(*1)ボリーバル(Simón Bolívar1783-1830)、ベネズエラ人。グランコロンビア初代
大統領(1821-30)。南米の解放者として敬われる。ラ米の独立革命参照
(*2) モラサン(Francisco Morazán、1792-1842)、ホンジュラス人。
中米連邦大統領(1830-40)。連邦解体後も再建に尽力
(*3)ポルタレス(Diego
Portales、1793-1837)、チリ。1833年憲法。国家統合功労者(*4)ペドロ二世(Pedro
II、1825-91)、ブラジル皇帝(在位1840-89、親政ベース)(*5)ミトレ(Bartolomé Mitre、1821-1906):アルゼンチン。ブエノスアイレス州
で反ロサス運動。1853年憲法後に発足した政権にも反対し国家統合を遅らせな
がら自身は統合後の初代大統領(1862-68)。三国同盟戦争総司令官
(*6)フアレス(Benito Pablo Juárez García、1806-72)、メキシコ。1857年憲法。
レフォルマ戦争、抗仏戦争。
反帝政政府(1862-67)を含め、1861年より72年まで大統領
(*7)マクシミリアン(Maximiliano
I、1832-67)、オーストリア皇帝の弟ながらフラ
ンスのナポレオン三世が実現させたメキシコのハプスブルグ家皇帝(1864-67)
(*8)ガルシア・モレノ(Gabriel García Moreno、1821-1875):エクアドル
大統領(1861-65、69-75)。彼の政権下で制定された「1869年憲法」は当時の
ラ米でも最も保守的なもの。75年に暗殺される。
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