十九世紀後半、ラ米の政治支配は、いずれも以後、鉱山主、大土地所有者、大商人を背景にした寡頭勢力が前面に出るようになる。いわゆる寡頭支配(オリガキー)だ。一方で、ラ米は鉱業資源及び食糧の供給と工業製品の市場として、十九世紀後半、産業革命の成熟期を迎えていた先進工業国の注目を集めていた。資源輸出と製品輸入の貿易構造が確立されると、資本力のある先進国は当然、その資源に対する開発投資を進めることになる。前提だったのが、政治と国内治安の安定、及び経済活動(貿易、投資)の自由だ。十九世紀末、ラ米諸国も全て、自由主義経済体制を確立していた。これは欧米先進国経済の周縁化を意味し、後に喧伝されるラ米経済の「従属論」の拠り所となる。地域差があるので、分けて述べる。
(1)ヨーロッパ人移民急増のアルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル
パラグアイ戦争の勝者と敗者では、戦後の展開が大きく異なった。アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルには国情安定で肥沃な大地を目指しヨーロッパ人移住者が殺到し、以後の経済繁栄に大きく貢献したが、パラグアイは国土再建で手一杯で、経済発展期も遅れた。
- パラグアイ:1876年6月、占領軍(実際にはブラジル軍)撤収、漸く国情が落ち着いたのは1880年のことだが、87年、この国でもコロラド党及び自由党が結成され、他諸国同様、権力基盤が政党となる。
- アルゼンチン:欧州諸国、特にイギリスが鉄道、電力、通信、貿易、金融、及び冷凍肉分野で積極的投資に打って出た。鉄道の延伸でパンパ(大草原)が奥地まで開けると、工業用原料としての羊毛と皮革産地のほか、北米の大草原(プレーリー)同様、大穀倉地帯としての潜在性がヨーロッパでも脚光を浴びたことによる。内陸部の治安確保のため、として、1879-80年、ロカ(*1)将軍が軍を動員、パンパからの先住民追討作戦を展開する。「荒野の征服」と呼ばれる。治安が確保されるとヨーロッパ人が大量移住して来た。この国がラ米域内の強国になったのは、これ以降、といえる。
- ウルグアイ:カウディーリョ同士の抗争は一応収まり、アルゼンチン同様、イギリスを中心とした投資が入りヨーロッパ人移民が殺到する。1903年、バッジェ(*2)政権が発足、労働並びに福祉立法、及びインフラ事業国有化をいち早く着手する。
- ブラジル:鉄道の延伸による奥地開発が進んだ。この国はラ米では奴隷解放が最も遅れていた(チリが最も早く1823年で、十八世紀央までに殆どのスペイン系独立国で実現済み)が、1871年、奴隷の新生児全てが自由人、と定められ、88年5月、奴隷制自体が廃止された。さらに89年11月、フォンセカ(*3)元帥による無血革命で、帝政も廃止される。これ以降、ブラジルにもヨーロッパ移民が殺到する。当時サンパウロを中心とするコーヒーの興隆期にあり雇用機会は多かった。94年以降12年間、大統領はサンパウロ出身で占められ、その後酪農で知られるミナスジェライス出身と交代するような形となる。これを揶揄して「ミルクコーヒー(Café com leite)体制」と呼ばれた。
(2)鉱物資源のメキシコと南部アンデス諸国
植民地時代の銀の生産地だったメキシコとペルー、チリ及びボリビアは、銅、亜鉛、錫などの非鉄金属資源、及び火薬や肥料の原料となる硝石の資源国でもあり、やはり外資を引きつけた。しかしこの期間は全く異なった展開を見せた。
- メキシコ:1873年、最初の鉄道が開通した。鉄道延伸により地方部の開発が進み、非鉄金属資源に対する外資、特に米国資本の関心を引き付けた。76年から以後35年間も続くディアス(*4。本項でもカウディーリョを紫字で表示)政権時代、彼の強権による国情安定と地方部の治安維持がこれを促した。移民促進の政策を採らなかった点がアルゼンチンなどと異なる。
- 南部アンデス:チリとペルーの非鉄金属に投資したのは米国企業で、南米南部では珍しかった。ボリビアを含む太平洋岸には豊富な硝石が眠っていた。これにはイギリス企業とチリ企業が手掛けた。彼らに対する課税強化がチリ対ボリビア・ペルー同盟の太平洋戦争(1879-84。別掲「ラ米の軍部と戦争」ラ米確立期の戦争参照)に発展する。チリは戦勝の結果、硝石資源産地の殆どを自国領土に組み入れた。敗戦国はいずれも硝石産地の大半を喪失、特にボリビアは太平洋への出口を失い内陸国になり、蒙った経済的打撃は甚大だった。以後; ①
チリ:非鉄金属の開発と硝石輸出で潤い、経済発展に拍車がかかった。だが1886年に就任したバルマセダ(*5)大統領の改革が91年1月の「議会の乱」(下記千日戦争ともども、別掲「ラ米の軍部と戦争」のラ米の内戦参照)を呼び、彼は自害、以後行政府権限を弱体化させた「議会共和国」時代を迎えた。 ②
ペルーは太平洋戦争の英雄が敗戦後の政権を掌握したが、急増した債務返済に関わるイギリスの商社との協定が屈辱的、として国内間に高まった不満が1895年3月の「ピエロラ(*6)革命」を招いた。 ③
ボリビアでは敗因をカウディーリョ支配に帰せ、文民政治時代に移行、1899年のいわゆる「連邦革命」を経てパティーニョ、ホシルト及びアラマヨという三大錫財閥(「ロスカ(Rosca)」と呼ばれた)が経済のみならず政治的にも台頭する。
(3)北部アンデス諸国の其々の道
自由主義のグスマン・ブランコ及び保守主義のガルシア・モレノ以来、夫々ベネズエラとエクアドルで政情は安定したのは1890年代までで、以後、夫々性格の異なる政変を迎える。一方地方権限が強いコロンビアでは、激動の時代に入った。
- コロンビア:1880年からのヌニェス(*7)政権発足で保守党時代に入った。86年彼の政権下で中央集権的な憲法が制定され、国名が現在の「コロンビア共和国」に変わる。経済政策は自由主義だったが、下野していた自由党が反政府武力闘争を繰り返した。1899年のそれはいわゆる千日戦争に発展する大規模なものだった。和解成立後、今度は1903年1月、米国とパナマ運河建設に関る「ヘイ-エラン条約」締結、同年10月、議会により否決、同年11月3日、パナマの独立派がコロンビアからの独立宣言、と進み、パナマを喪失した。対米関係も絡んでの政情不安定に陥る。
- エクアドル:一時的に自由主義勢力が政権を担ったこともあったが、この時代、超保守憲法下にあった。1895年9月、エロイ・アルファロ(*9)率いる自由党軍がクーデターで政権を掌握した。「グァヤキル革命」と呼ばれる。97年に漸く自由主義新憲法が公布され、憲政上も自由主義時代が訪れた。
- ベネズエラ:グスマン・ブランコ退陣後も自由主義体制は堅持されていた。1898年2月に起きた内乱は、翌99年10月、西部アンデス地方の僻地出身のシプリアニ・カストロによるクーデターで収拾する。その4年後、イギリス、ドイツ、イタリア三国による諸港封鎖事件で対列強孤立が暫く続いた。この修復が求められていた。08年12月、政変を起こしたビセンテ・ゴメス(*8)が対列強賠償問題、米国企業との紛争の解決を断行し、漸く国際信用が回復させている。
(4)米国の裏庭
南北戦争後の米国にとり、カリブ海域と中米諸国の安定が、国益上、重要課題だった。勿論、自由主義経済体制は前提条件だった。米墨戦争後、米国に対するラ米の警戒が再燃したのは、1898年の「米西戦争」と言われる。それに参戦し英雄となりその後米国大統領に上り詰めたセオドア・ルーズベルトは、ラ米では「モンロー主義のルーズベルト系論」と呼ばれるいわゆる「棍棒政策」で悪名高い。また有名な米企業「ユナイティッドフルーツ社(UFCO)」が設立されたのは1899年、中米に、それまでの主力産品だったコーヒー、カカオをバナナが輸出高で凌ぐ、いわゆる「バナナ・リパブリック」時代を到来させた。だが、米国の中米・カリブ地域への介入については別掲のラ米と米国に譲り、ここでは同地域の一部諸国について動きを概観する。
- キューバ:キューバは、十九世紀に入って独立後のハイチで壊滅状態に陥った砂糖産業を引継ぎ、唯一のスペイン植民地でありながら、米国の旺盛な需要に支えられラ米では飛び抜けて早い鉄道敷設など、経済繁栄を享受していた。その独立は第一次独立戦争(1868-78)、第二次独立戦争(1895-98)、米西戦争(1898年)を経て1899年1月、米国の保護下で漸く実現する。1902年5月、共和国としてスタートしたが、「プラッツ修正条項」という米国のキューバ外交介入権を定めた憲法を条件とした。また米国にグァンタナモ市海軍基地の永久租借権を付与した。
- パナマ:コロンビア北端の州パナマは、米墨戦争でカリフォルニアを得た米国にとり、カリブ海から地峡を経由し同地に至る交通の回路となる重要な地でもあった。地峡鉄道を開通させたのは米企業だ。独立宣言から僅か2週間後、米国はパナマから全長80キロ、運河を挟んで8キロずつ(計16キロ)を租借した上で運河建設及び運営を委ねさせる条約を締結した。国防も米軍に委ねる、として、国軍創設もしなかった。
- ドミニカ共和国:1880年、独裁下で漸く国情は安定した。だが独裁が終わると政情不安が一気に高まり、対外債務危機を来たした。解決策は米国に委ねられる。1907年の対米関税管理権の付与だ。米国の管理官が関税収入の振り分けを決め、実行させるもので、国家歳入の大半を関税に依存する当時、事実上の保護国化である。
- ニカラグア:1869年から73年にかけ、ニカラグアを除く中米4ヵ国は全て自由主義派が政権を握った。以後政権が保守派に代わっても体制としての自由主義は確立した。また中米再統合の動きも繰り返されたが、その都度関係国の政変で頓挫している。1893年7月、セラヤ(*10)によるクーデターでニカラグアも自由主義政権に代わった。だが近隣諸国の政情流動化の一因ともなる介入を繰り返し、後年の米国の介入を来たす。
人名表
(*1) ロカ(Julio Argentino Roca、1843-1914)、アルゼンチン。「砂漠の征服」で国
家発展。大統領(1880-86、1898-1904)。1880年より四半世紀、政界重鎮
(*2) バッジェ(José Batlle y Ordóñez、1856-1929)、ウルグアイ。大統領(1903-07
及び11-15)。複数行政制度確立と世界有数の福祉国家建設に奔走
(*3) フォンセカ(Manuel Deodora
da Fonseca、1827-92)、ブラジル。共和制移行
(*5) バルマセダ(Jose Manuel Balmaceda、 1840-91)、チリ。大統領(1886-91)
議会との対立に敗れた悲劇の大統領
(*6) ピエロラ(Nicolás de Piérola Villena、1839-1913)、ペルー。大統領(1879-81、
太平洋戦争最高司令官、1895-99)
(*7) ヌニェス(Rafael Núñez、1825‐94)、コロンビア。大統領(1880-82、
84-86、87-92、1892-94)。1886年、現コロンビア共和国樹立
(*9) エロイ・アルファロ(José Eloy Álfaro Delgado、1842-1912)、エクアドル。
大統領(1895-1901、及び1906-11)
紫字の下記三人については、別掲「カウディーリョたち」も参照
(*4)ディアス(Porfirio Díaz、1830-1915)、メキシコ。35年間の強権で国家安定
(*8)ビセンテ・ゴメス(Juan Vicente Gómez、1859-1935)、ベネズエラ。28年間の強権(*10) セラヤ(José Santos Zelaya、1853-1919)、ニカラグア。初めての長期政権。
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