左派政権の国々 |
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本項では左派政権の5ヵ国を取り出して述べる。典型的な社会主義国はキューバだけだが、他4ヵ国の最高指導者はいずれも政治思想としての社会主義を標榜する。2013年6月末、元米国中央情報局(CIA)職員の亡命先候補として取り沙汰された21ヵ国の中に、この5ヵ国が入る。他のラ米ではブラジル(受け容れ拒否)があるだけだ。 キューバは共産党を唯一の合法政党とする。他4ヵ国は代表制民主主義の政治体制を採る。現状、4ヵ国とも大統領の出身母体の政党が議会で3分の2前後の議席を持つ。4ヵ国とも大統領の多選を認め、ベネズエラとニカラグアでは連続再選回数規定を廃している。かかる憲法改正は全て、現政権党下で行われた。
(1) キューバ 旧ソ連・東欧型の典型的社会主義国。1899年元日、米国の保護国として独立、最初から政治経済面で対米依存関係にあった。キューバ革命は一義的にはバティスタ独裁(1901-73。実質上の在任1934-44、1952-58)に対する、且つ経済活動の対外自立を意図した民族主義的なものだったが、社会主義革命に変貌する過程と、米州内孤立時代を経て今日に至る流れについては、別掲「ラ米の革命」キューバ革命で述べる。 この国を見る場合、米国による半世紀近い国交断絶と経済制裁(2001年から始まった食料・医薬品輸出を除く)及び米国民の渡航禁止の解除が何時になるか、が最大のポイントだ。 2009年1月に発足したオバマ米政権は制裁緩和に大きく動いたが、非民主主義体制と人権問題を理由に基本政策は継続され、キューバ系を除く米国人のキューバ渡航も多少の緩和こそあれ、基本的には禁止されている。現在、米国では4名の、キューバでは1名の「相手国スパイ」を拘留中で、これが関係改善の大きな枷となっている。 ラウル議長は、2011年4月の第六回共産党大会で、自営業に対する雇用権付与や許認可手続きの緩和を含む経済開放策を党として承認させ、さらに国政の幹部職者の任期を2期10年に限定する提言を行い、2013年2月、全国人民権力会議(国会に相当)で正式決定となった。その前月、国民の海外渡航を、原則自由化に踏み切った。 (2) ベネズエラ 南米の解放者、ボリーバル(1783-1830)を生んだベネズエラでは、政治史上、個人による長期政権が続き、選挙制民主主義が確立したのは1958年のことだ。以後94年まで、民主行動(AD)と社会キリスト教(COPEI)の二大政党が政権交代を繰り返していた。小党連合政権を経て99年1月に発足したチャベス(1954-2013)政権は、2013年3月の死去までの14年間続いた。彼は直近の2012年10月選挙を含む4回の選挙で、常に過半数の得票で選出された。1999年の憲法改正で大統領任期はそれまでの一期5年から6年に伸び、2009年2月に行った憲法改正国民投票で、大統領(一期6年)再選規定も撤廃された。選挙制民主主義を採るラ米諸国で、例外性は突出する。 2006年4月、加盟していた「アンデス共同市場(CAN)」の諸国が米国とのFTAを進めることを嫌い、これを脱退、FTAA構想に反発してきたメルコスルに加盟を申請、12年7月、漸く実現した。パラグアイ(唯一、議会批准が得られていなかった)が一時的に資格停止処分にあり、これに乗じた格好だ。 上記大統領選で敗れた野党連合の「民主統一会議(MUD)」候補は、不正選挙を理由に、6月末現在、正式にはこれを認めていない。一方で、2014年2月、治安悪化や物資欠乏、インフレに抗議する学生デモが起きた。MUDを構成する政党の指導者らが、これを大統領の退陣要求に動き、一方でデモの激化やそれへの政権側支持層の攻撃、さらには公権力による実力行使が繰り返され、UNASURの仲介で政権側とMUDの対話も行われたが、和解に反発する学生を中心とした抗議活動は、今なお続く。 (3) ボリビア 先住民が国民の過半数を占めるボリビアのモラレス大統領は自らが先住民だ。麻薬のコカイン原料にも使われるコカ栽培農家(「コカレロ」と呼ぶ)出身で、その擁護でも知られる。麻薬問題に苦しむ米国とはもともとソリが合わない。 ボリビアはキューバ革命に先行して社会革命を成し遂げた(別掲「ラ米の革命」のボリビア革命参照)が、その母体だった「国民革命運動MNR」は軍政時代に分裂、民政移管後はMNR、その分党、及び保守派政党が連立の組み換えを繰り返す政権構造が定着した。重債務国で南米最貧国からの脱却に豊富な天然ガスに着目したものの、外資依存(その場合も課税率を巡る論争)と国有、産地への恩恵など議論が纏まらず、ここで台頭したのがモラレス氏と、彼が立ち上げた社会主義運動(MAS)だ。結成5年後の2002年、エネルギー資源開発の国家独占を掲げて、初めて大統領選に出馬、MNR候補に敗退したが、05年に行われた前倒し選挙で初当選した。 内陸国という大きな経済障害をどう乗り越えるかも重要な視点で、太平洋出口の確保を悲願とする。膠着状態にある対チリ交渉の先行きを注視したい。 (4)エクアドル コレア大統領は、左派大統領の中では米国でも教育を受けたエコノミスト上がり、と言う点が異色だ。2006年11月の決選投票で、左派及び中道左派系政党の支持を得て当選、翌07年1月からの政権をスタートさせた。 上記総選挙の僅か一月前の2009年3月、コロンビアがFARC征討軍をエクアドル領内に越境させたことに反発し、同国との外交関係を中断していた(10年に回復)。 オルテガ大統領のサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)主導の1979年の革命は、別掲「ラ米の革命」ニカラグア革命で述べるが、43年間に及ぶソモサ(父1896-1856、長男1922-67、次男1925-80。いずれも最高権力行使期間)家支配体制を転覆させる反ソモサ勢力が一緒になって起こしたものだ。彼を首班とする革命政府には右派のビオレタ・デ・チャモロ元大統領(在任1990-97)も参加した。革命政府で元左翼ゲリラのFSLN色が強まり彼女が脱落、一方で反革命勢力(コントラ)との長い内戦に入り、85年の選挙(オルテガ氏が正式に民選大統領となる)を経ても、数年間、この状態が続いた。国連監視団が見守る中での選挙でデ・チャモロ氏に敗れ交代した90年、内戦は終結する。 オルテガ氏は2006年選挙で復権を果たした。だが彼のFSLNは、従来議会で過半数に達せず、彼の革命家としてのカリスマ性こそあっても、現実的な政策運営は必須だった。ニカラグアは「中米統合機構(SICA)」と「中米共同市場(MCCA)」のメンバーで、経済的には「米国・中米・ドミニカ共和国自由貿易協定(CAFTA-DR)」を通じ米国と一体化している。それでも復権後間もない07年2月、ALBAに加盟した。 彼は、2011年選挙で連続再選された。憲法上、革命の原因となった一族超長期支配を排除するため、大統領の連続再選は勿論、親族同士の政権交代も禁じていた。だがオルテガ大統領に対してのみ、最高裁が例外扱いを認めた。且つFSLNが全議席の3分の2を確保した。ニカラグアはラ米の最貧国に留まったままだ。オルテガ氏にもその責任の一端はあろうが、国民は彼とFSLNを選んだ。2014年1月、議会は大統領連続再選を認め、その回数制限もしない、と言う憲法改正を決議した。ベネズエラに次ぎ、この国でも一個人が、選出さえされれば、何期でも連続で大統領を務めうるようになった。彼は、ニカラグアの大西洋・太平洋両岸を貫く運河建設に気勢を挙げるが、この問題を含め、今後の動きに注視したい。
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