メキシコ・中米・カリブ諸国 |
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メキシコは人口で1億1,370万人、GDPで1兆40億jの域内大国だ。中米6ヵ国及びカリブ島嶼国のドミニカ共和国は合わせても人口5,170万人でメキシコの半分、GDPは1,960億jで五分の一に過ぎない。一つに括れば、人口、GDPいずれも、ラ米全体の3割近くを占める(数字は前項同様、World Fact Book,2012より採用)。また、前者はNAFTAで、後者はCAFTA-DR(中米5ヵ国とドミニカ共和国)及び二国間FTA(パナマ)を通じ、経済的には米国と緊密な関係にある。 大統領の再選自体を禁じる国は、ラ米全体の4ヵ国中この地域で3ヵ国、大統領選で決選投票のない5ヵ国中、同3ヵ国と、域内では政治的には特異ともいえる。
(1)革命とNAFTA−メキシコ 2012年、PANから12年ぶりにPRIに政権を回復させたペーニャニエト大統領は、貧困対策に積極的とも見られ、ここでは中道、と位置付けたい。ラ米の政党模様で述べたように、メキシコでは大統領選で米国同様に決選投票が無い。彼の得票率は4割に満たなかった。また任期は6年、と長いが、再選自体が禁じられている。もともと国家指導者としてのカリスマ性発揮が難しい。やはり米国同様に任期が大統領の半分の下院議員の選挙(中間選挙)で、与党議席の減少の恐れもある。それ以前に、既に議会でも政権発足時点で4割、少数与党である。 メキシコ革命の結晶たる「1917年憲法」は、労働基本権、地下資源の国家所有権、農地保有の平等権などを定めた。PRIは、いわばその革命の申し子だ。前身から数えて71年間もの間、連続して政権与党の座にあった。初期には、カルデナス(1895-1970。在任1936-40)という有名なポプリスタを生んだ(別掲「ラ米のポピュリスト」のヴァルガスとカルデナス参照)。同党の歴代政権は、その時々の政策面で左派、中道、右派と振り子のように変わり、1980年代の債務危機を経て新自由主義経済体制の構築を進め、1994年、NAFTAにも加盟した。その意味で長く野党に甘んじて来た右派のPANとは、政策面で似通ったものになっていた。1988年、PRI左派が民主革命党(PRD)を結成し、メキシコ三大政党の一角にまで成長していく。 米国に隣接するメキシコでは、巨大化した麻薬組織が今日的宿痾とも言える。若くエネルギッシュなカルデロン前大統領はその撲滅を図り、軍を動員した。ただ、麻薬組織による暴力が尖鋭化し、彼の政権下でかかる暴力で7万人という途方も無い犠牲者数が取り沙汰された。逆効果だった、との見方もあり、12年の国連総会で、力一辺倒の麻薬対策を見直すよう提案した。後任のペーニャニエト政権下での対応を注視していきたい。
2006年締結の国境協定で、国民同士の国境通過を自由化し統合の度合いを一気に高めた4ヵ国(別掲「ラ米の地域統合」の中米の統合参照)は、いずれも一人当たりのGDPでラ米の下位グループを形成する。ホンジュラスを除く3ヵ国は1960、70年代から80、90年代にかけて激しい内戦を経験した(別掲「軍政時代とゲリラ戦争」のゲリラ戦争参照)。ここではニカラグア(「左派政権」の項で取り上げた)を除く3ヵ国について述べる。いずれも大統領の再選自体を認めない点ではメキシコと同じだが、グァテマラとエルサルバドルは決選投票制を導入している。 グァテマラは、中米では最大の人口と、中米経済統合事務局及び中米議会を抱える。1944年のいわゆる「グァテマラ革命」まで、特定の最高権力者が長期政権を担う歴史を持つ。54年に民族主義で知られるアルベンス(1913-71。在任1951-54)政権が崩壊した後は、軍人政権が続き、60年代から長い内戦の時代(軍政時代とゲリラ戦争参照)を過ごし、事実上の民政移管は85年。96年の内戦終了後最初の99年選挙から今日まで誕生した大統領4名は、全て初出馬で次点、二度目で当選した。ラ米でも極めてユニークな政治状況と言える。 エルサルバドルは、国土面積でラ米最小、中米で唯一カリブ海への出口を持たない。1823年に成立した中米諸州連合(中米連邦)の最後の連邦首都所在地だった。現在は中米統合機構(SICA)事務総局を抱える。国内通貨は米j。 フネス前政権は、同党議席が議会過半数に届かず、ARENAの反主流派が他党の一部と共に結成した「国民統合大同盟(GANA)」と部分的な政策連合を組んだ。政権発足後ほどなく、革命後のキューバと、国としてはラ米諸国で飛び抜けて遅く、漸く外交復活を成し遂げたことを除くと、概ね政権運営が極めて現実的で、対米協調も維持して来た。 ホンジュラスは中米統合の父、モラサン(1792-1842)の生国だ。だが一人当たりGDPでラ米ではニカラグアに次ぐ貧困国であり、北の隣国グァテマラ(1954年政変)及び南の隣国ニカラグア(1980年代内戦)の反政府勢力の拠点になった歴史を持つ。政治的には結成後一世紀以上の歴史を誇る国民党と自由党の二大政党体制が、議会選挙制度上は多党化に繋がりやすい筈の比例代表制の中で、2013年総選挙まで維持してきた。両党の政策面での大きな違いは見えにくいが、セラヤ自由党前政権期(2006-09)にALBAに加盟(議会も批准)、自由党内に左傾思想も厳存していたことを表す。同前大統領は、クーデターで追放された。大統領再選解禁を伴う憲法改正への国民投票強行を図ったことが犯罪、として出された軍に対する最高裁命令がある。司法が軍に命令を出せることも異様だが、ともあれ軍政には至らず、彼の後は国会議長(自由党)が暫定政権を率いた。ALBAからは脱退している。 国民党のロボ前大統領は、2009年11月の総選挙で選出された。決行された選挙の正統性を巡り、ラ米世論は二分した。ロボ政権下の11年6月、セラヤ氏が不逮捕保証により帰国したことを受け、政権の正統性問題は解決した。且つ、ロボ政権が大統領再選禁止撤廃に向けた国民投票の合法化を実現させている(未実行)。 (3)中米の域内富裕国−コスタリカとパナマ 中米唯一の白人国コスタリカと、多様な人種で構成され運河を持つパナマ。前者は1949年憲法で常備軍を廃して来たし、後者は1989年以降、それまでの国防軍を国土保安隊に置き換えた。人口面でラ米では最小のウルグアイに次ぐ下から二、三番目、一人当たりGDPでは上記CA-4とは対照的に、またウルグアイとは同様に、上位に属する。なお現在のラ米諸国の中で、この二カ国だけが上記の太平洋同盟への加盟を試みている。 コスタリカは中米五カ国の一角にありながら、上記CA-4とは距離を置き、中米司法裁判所及び中米議会には参加していない。代わりに、太平洋同盟への参画を追求する。 ラ米の中で最も民主主義が根付いた国、と言われる。これまでの主要政党には国民解放党(PLN)とキリスト教社会統一党(PUSC)があった。前者は、現平和憲法を公布したフィゲレス(1906-90。革命評議会議長として在任1948-49年、同、民選大統領として1953-58年及び1970-74年)が創設、以後今日までの半分の年数で政権を担った。エルサルバドル、グァテマラ及びニカラグアの同時内戦に周辺国も巻き込まれた1980年代の「中米危機」の時代は、PLN政権期に当たる。中米危機全体の和平の枠組み構築に精力的に動いたのが、第一次政権を担っていた当時のオスカル・アリアス(同1984-88、2006-10)前大統領で、これでノーベル平和賞を得た。CAFTA-DR条約批准は第二次アリアス政権発足後のことで中米では遅れた方だ。 なお、カリブ海に注ぐサンフアン川河口地帯の領有権を巡りニカラグアとの係争を抱え、前項で述べたように2010年10月、一時的に緊張が高まった。 パナマが1968年10月にクーデターを起こしたトリホス将軍(1929-81。「パナマ最高指導者」1968-81)からの軍政期を経て事実上の民政復帰を果たしたのは、1989年12月、米軍侵攻で、彼の後の最高権力者だったノリエガ将軍の米国移送後だ。それ以降、パナメニスタ党と民主革命党(PRD)二大政党が一期毎に政権交代を繰り返してきた。前者は68年のクーデターで追放されたアルヌルフォ・アリアス(1901-88。在任1940-41、49-51、68)の流れを汲み、後者は1977年にカーター米政権との運河返還条約締結に漕ぎ着けパナマの英雄となったトリホスが、79年に創設した。 マルティネッリ大統領氏は、彼自身が創設したCDとパナメニスタ党と連立関係を築いたものの、2年で解消した。小選挙区を採用する議会では、議員の政党間移動が進み、CDの議席数は政権発足時20%だったが、現在では過半数だ。 (4)カリブのドミニカ共和国 スペインの最初の植民地が築かれ、170年余り経って西部をフランスに奪われ、それから130年で、独立したハイチの支配下に入りそこから独立した、というドミニカ共和国。グァテマラやベネズエラ同様、建国後特定個人による強権政治が繰り返され、ニカラグアやハイチ同様、米軍による統治を受けた歴史を持つ。民主化は、トルヒーヨ(1891-1961。最高権力1930-61)時代と1965年のドミニカ内戦(別掲ラ米の戦争と軍部のラ米の内戦参照)を経て、66年に始まった。約半世紀だ。この内の22年間はバラゲル(1906-2002。在任1966-78、1986-96)、12年間はフェルナンデスレイナ前大統領(在任1996-2000、2004-12)が政権を担う。個人の長期政権が歴史的な特徴とも言える。 現二大政党のPRDとPLDは、いずれも、反トルヒーヨ運動で活躍したボッシュ(1909-2001)が創設した。政党としては、前者が12年間、後者が確定期間を含めて16年間の政権を務めた。前者は、3名で夫々一期ずつ大統領を務めた。上記フェルナンデスレイナ氏は後者に属する。彼の第一次政権時代に、キューバとの国交回復を実現したことを含め、中道左派系と見做されることもあるが、対米協調、自由主義経済体制の推進という基本政策はPRDと変わらない。メディーナ大統領は、PLDから出た。彼が選出された2012年選挙から、大統領の連続再選は禁止された。
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